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社会主義協会提言の補強・序章後半

 

四 再建後の発展と逆流

 一九六七年の社会主義協会再建の後、独占資本とたたかう理論的な力を求める労働者の結集が進み、社会主義協会の活動は急速に広がり、社会党、労組への影響力が大きくなった。会員にとっては、正しい理論は必ず広がり、また、理論が人々の心をとらえれば大きな力になることを、確信できる時期であった。

 六〇年代後半は、社会党員数も、機関紙部数も減少傾向であった。六八年参院選で後退し、六九年衆院選で大敗(一四〇議席から九〇議席へ)した。総評の運動も停滞気味であるうえ、一方ではIMF・JC(国際金屑労連日本協議会、後の金属労協)による民間労組の結集、他方では共産党や極左勢力の浸透などにより、求心力が欠けていた。そういう情勢の下でもわが協会は、独占資本による搾取強化への抵抗闘争と学習活動をつうじて、労働組合と社会党を強化するよう粘り強く労働者に働きかけつつ、階級闘争は必ず発展すると説きつづけた。その主張の正しさが、後に労働者の反独占諸闘争の盛り上がりのなかで実証され、社会主義協会の影響力力が急速に拡大したのであった。

 

 社会党では七〇年一一月の大会で、「機関中心主義」を標榜する執行部が誕生し、「日本における社会主義への道」に沿って再建に取り組みはしめた。国労の「マル生」(生産性向上運動の名による不当労働行為・組織切り崩し)反対闘争の前進とも結びついて、社会党・総評ブロックの運動は上向きになった。大都市部を中心とする革新自治体も「中央を包囲する」という勢いをもって拡大していた。七二年末の総選挙で社、共が議席を増やし、七四年参院選で保革伯仲となったので、反自民政権への期待が高まった。運動の広がりのなかで社会党員、機関紙が増加に転じ、また、「道」にもとづいて思想的な統一性も高まった。協会員も、『社会主義』読者も増え、関東、関西、九州につづいて、東北、北海道にも支局が設置され、さらに全ブロックに設置する方針で取り組みが進んだ。

 社会党の前進と社会主義協会の影響力拡大に、独占資本は危機感を強めた。ことに、七四年以後の深刻な不況とインフレのもとで、社会党から平和革命の牙を抜き、労働組合から反合理化の牙をぬくために、組織つぶしの攻撃も、マスコミなどを使った宣伝攻勢も強められた。党、労組内でも、摩擦が激しくなった。七七年初頭から「協会規制」の動きが強まり、党内で激論がつづいたが、九月に、社会主義協会と総評党員協との「協会改革」に関する合意が成立した。その内容は「社会主義協会テーゼ」を「社会主義協会の提言」と改め(「綱領」を持つ「党中党」であるかのような印象をなくすという理由で)、若干の字句修正をおこない、規約を簡素化したものであった。それはその直後の社会党大会でも承認された。

 

 われわれは、社会党、総評の階級闘争路線にもとづく強化を、真剣に追求したのだが、理論的影響力の浸透が不十分ななかで、行き過ぎもあって、そのために生じた弱みを突かれたのであった。社会主義協会は、社会党内の亀裂をこれ以上大きくせず、労組との協力関係を維持するために、妥協に応じたのである。

 しかし、協会員および科学的社会主義の理論を学ぶ活動家層への締め付け、抑え込みは、ゆるくはならなかった。労働者運動が、資本の合理化攻勢に全力をあげて抵抗しなければならない時に、活動家層の動きが抑えられたため、たたかいの後退はいっそう著しく、労働条件の低下に拍車をかけた。社会党も、地域の活動を担っていた党員の行動を封じ込めたから、目立って活力が低下した。

 

 こうして労働者運動がさらに後退する状況下で、社会党は八○年に「社公合意」を結んで、「道」にもとづく全野党共闘政権の構想を放棄し、同時に「道」見直しの議論を開始した。数年間の討議をへて八六年一月の大会で、社会民主主義への転換を明確にした「新宣言」が採択された。その討議は、党内でも協会内でも真剣であり、かつ、苦悩をともなうものであった。対処方針をめぐる違いも表面化した。しかし、その後も社会党の強化の努力をつづけるという点では動揺はなく、社会主義協会員は党内にとどまった。

 

五 再度の分裂を克服し、再建へ

 一九八九年に総評が解散され、連合が正式に結成された。社会党は労組の「政治離れ」に不安を強め、他方では、「もっと現実的になれば政権の座も可能」との誘惑に動揺した。ソ連・東欧社会主義諸国家の崩壊で、社会主義の前途に希望を失う者も少なくなかった。動揺した社会党のなかで、「解党的出直し」論議が始まったが、それは党内の不信を強めるだけで、党員、支持者のエネルギーを引き出すものにはならなかった。

 九三年細川内閣への入閣以降、党内の議論はますます混迷していたが、九四年に自・さ・社連立の村山内閣が成立し、直後の国会で「安保・自衛隊に関する基本政策放棄」の演説がなされてから、党員の気力も衰え、党勢の後退は決定的になった。九六年に社会党は社会民主党に名前を変えたが、その直前に新社会党が分離し、秋の新党運動を経て、国会議員と支持労組の大半が民左党に移り、地域活動を支えていた党員の多くは社会民主党に残った。協会員の大多数は社会民主党に残ったが、地方組織、産別の違いによって、政党所属を異にする結果になった。

 その後、協会内では、社会主義運動と党の再建をめぐって、論争が激化した。とくに全国的には、社会民主党に残った多数の会員と、新社会党への結集を急ぐ会員との対立が激しくなった。結局、第三一回総会(九八年)の召集を決める運営委員会から一部の運営委員が退場し、総会にも出席せず、社会主義協会は二度目の分裂となった。

 

 この一連の過程を振り返ってみると、情勢認識や運動の総括に関する見解の相違が解消されないまま、その後、社会党・総評ブロックの解体、ソ連・東欧社会主義の崩壊による冷戦の終焉、大競争時代と言われる国際経済競争の激化など、次々と生ずる大きな変化に直面して、ますます論争が激化し、かつ複雑化してしまったと言うことができる。それは、事態を的確にとらえ、戦略的思考をふまえつつ運動と政策を再構成してゆく理論的な討議が、不足していたということでもある。現在われわれは、一九六七年の分裂後と同じように、理論研究活動の強化をつうじて労働者の信頼を回復し、組織の立て直しをはかろうという方針をとっている。

 

 分裂以後は、組織の再建・整備をはかるとともに、「提言」の補強にむけて、総合的な戦略的観点をもちながら、情勢の分析と運動を考え、率直な意見交換をおこなってきた。組織は活力を回復しつつあり、科学的社会主義の原則をふまえつつ、新たな情勢に対応するよう、研究・討議も積み重ねられている。これは社会主義協会再建の第一歩に過ぎない。本格的な再建は、われわれの理論が、労働者を中心に、二一世紀社会を担うすべての働く者のなかに浸透し、現実の社会を動かす力となったときにはじめて、成功と言える。社会主義協会は労農派の伝統を受け継ぎ、労働者政党、労働組合を中心に広範な統一戦線の形成を促しつつ、日本における社会主義を追求してゆく。

  

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