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山川菊栄連続学習会第5回 山川菊栄とナショナリズム(後半)
■フェミニズムとナショナリズム―山川菊栄の残した課題
大越愛子
 
 私は過去から現在におけるいわゆるフェミニズムの文脈のなかで山川菊栄の位置とはどういうものか。そして山川菊栄が先駆的に言っている諸問題を今日のフェミニズムが十分に生かしきれていないのはなぜなのか。その辺りのことをお話ししていきたいと思います。
 
●転換期にあるフェミニズムと山川菊栄
 山川菊栄とローザ・ルクセンブルクとは同時代の人です。この時代、ローザのほかにもハンナ・アーレント、シモーヌ・ヴェイユなど、実力をもった女性思想家が出ております。彼女たちはあえてフェミニストと名乗らなかったので、六〇―七〇年代のフェミニズムでは、彼女たちは男性的な思考をしたと批判されました。現代においては、男性・女性を対立的に捉える二元論的思考にこそ問題があると指摘されています。彼女たちが提起した問題を、現在のフェミニズムに欠落していたものとして、むしろ彼女らから積極的に学び取る必要があるという状況なのです。
 
 彼女たちのなかに山川菊栄も入れたいと思います。資本主義や国家主義、植民地主義がもっとも苛烈であった時代に、彼女たちは生きぬき、女性や植民地の人びとをはじめとしてさまざまな弱い立場にいる人びとが苦しめられている状況に直面し、そこにどういう問題があるのかを鋭く解明したのです。
 
 資本主義が女性や弱者を搾取している状況は現在も変わっていないのですが、資本主義の戦略が、ある種ソフトな、搾取を不可視にする、情報資本主義のような形態に変わってきたので、あたかも問題が解決されたかのように見えるのです。そのためフェミニズムにおいても、資本主義批判的な視点が脱落してきたように思います。
 
 フェミニズムは市民社会における女性差別への抵抗として始まり、いわゆる第二期フェミニズムにおいては、私的領域に貫通している性差別、家族における差別の構造を告発してきました。そして九〇年代になって、日本軍「慰安婦」問題やユーゴスラヴィアで起こった集団強姦などの、戦争と性暴力の問題を契機に、国民国家そのもののなかにすさまじいジェンダー分離政策があることが解明されてきました。それは、特に東アジアにおける「慰安婦」問題を通して明らかになりましたが、欧米においても戦争体制への参与、国民国家論、国家とジェンダーなどの問題が、重要な論題になってきています。
 
 ここで現代のフェミニズムの課題を、次の五点にまとめてみます。@国民国家の枠内にあったフェミニズムの一国主義が問い直されている。A一九世紀以来の欧米覇権主義に随行していた「帝国のフェミニズム」が問題化されている。B「女性」という表現で隠蔽されていた女性間の階級的・民族的・人種的・文化的・性的志向などのさまざまな差異を明らかにし、そこに貫通している権力作用を浮き彫りにしていくことで、いわゆる従来のフェミニズムが陥っていた罠、あるいはその加害責任を明らかにすることが求められている。C強力な国民国家戦争体制、開発資本主義体制、ネオコロニアリズム体制、性暴力容認体制が自らの暴力性を隠蔽するために絶えず再生産している権力のディスコースのフェミニスト解体実践が求められている。その場合、フェミニズムはそうした体制内部に入り込むのか、あえて外部に立とうとするのかという問題がある。Dポストモダン的な価値相対主義が蔓延しているが、結局それは日本において保守反動と結びついている。こうした動きに抗して、正義、人権、モラルなどをフェミニズム自身がどのように再構築していくのかということが大きな課題になる。
 
 こうした問題に関して日本のフェミニズムはどうかといいますと、最前線のテクストは絶えず翻訳・紹介されていますが、理論のための理論が多いようです。日本軍「慰安婦」問題を通して、日本の一国主義フェミニズム、あるいは帝国のフェミニズムの加害責任がまさに追及されている状況です。しかも元「慰安婦」というはっきりとした顔を持って現れた被害者の証言なのに、それらの声にたいして十分に応じられていないのです。なぜそうなのかというと、自己批判も含めてですが、日本のフェミニズムには、資本主義システムにたいする批判が弱かったということがあると思います。
 
 八〇年代に、反原発とか公害批判を通して日本資本主義を問う試みはあったのですが、自然とか「女性原理」という非常にあいまいなものに論拠を求めたために、「マルクス主義フェミニズム」を名乗る上野千鶴子さんによって徹底的に葬り去られたのです。
 
 私は先日ある席で、上野さんに「あなたは市場主義フェミニストだ」と指摘しましたが彼女は否定しませんでした。市場主義者である彼女が、なぜ「マルクス主義フェミニスト」を名乗れるのか。彼女は、「ポスト構造主義の理論的遺産を受け継ぐフェミニズム文学批評理論がもたらした貢献の中には、語るエイジェンシーの発見がある。主体と区別するために持ち込まれたエイジェンシーという概念が示すのは、テクストの前にも外にも、語りに先立つ主体や自己は存在しないこと、それどころか主体や客体はテクストの効果として、事後的に構築されることであった」(ドイツ・日本研究所国際シンポジウム「歴史の政治学」レジュメ)と言っています。つまり彼女は、「マルクス主義フェミニズムを語るエイジェンシー」としてのパフォーマンスを繰り広げることで、そのテクストの効果である「マルクス主義フェミニスト」なるものを事後的に構築したということです。となれば、彼女は次々と派手なパフォーマンスを展開するしかないわけです。
 
 彼女の役割が派手なパフォーマンスを続けることで日本資本主義の諸矛盾を隠蔽することであるならば、彼女は見事にその役割を演じています。というのは、一国主義フェミニズムの加害責任を問い出した九〇年代の女性運動にたいしても、彼女の『ナショナリズムとジェンダー』は低い評価しか与えていません。彼女はその運動の一角を担った鈴木裕子さんの議論にたいして、戦後の後知恵とか歴史真空的地帯から発言しているなどの、わけの分からない批判をするのは、「階級」という歴史的なポジションの重要さとそのポジションに立つことの困難さを知っていて、その階級的立場を無化しようとする彼女一流の戦略だと思います。つまり上野さんは、自分の主張するマルクス主義フェミニズムに「階級」の視点が欠落しているという矛盾を隠すために、「階級」的視点に立つ鈴木さんを奇怪な理屈で攻撃するのです。
 
 最近明石書店から出た『現代フェミニズム思想辞典』では「階級の問題に関してはフェミニスト理論は二分されている。ポストモダニストは階級は近代主義者がマクロ分析に使うカテゴリーであり、…多くのフェミニストは構造化された不平等を明らかにする手段としてこの概念を使用し続けている」と書かれていますが、私は、厳然と構造化した不平等、構造的暴力がある以上、現代でも階級の視点は必要であると思います。そして鈴木裕子さんの階級の視点は、一国主義、帝国のフェミニズムを厳しく批判していた山川菊栄の階級の視点とつながると思います。
 
 山川菊栄の先駆性、山川菊栄のフェミニズムが、日本のフェミニズムの歴史のなかで正当に評価されてこなかったのは、フェミニズムが陥っていたある種の落とし穴のためです。山川菊栄というのは、読めば読むほどすごいスケールを持ち、現代に受け継ぐべき多くのものを持っているということを、私は深く感じています。
 
●資本主義批判としての「階級」的視点
 
 同時代のローザ・ルクセンブルクとの思想的な関係ですが、もちろん二人ともそれぞれ独自の道において思想を切り開いていったわけですが、期せずしてこの二人が自らの思想的な展開のなかで多くの問題意識を共有していたということを、今日指摘させていただきたいと思います。
 
 山川菊栄は、ローザが暗殺されたあと、ローザとリープクネクトにたいする追悼のパンフレットを出しています。選集(『山川菊栄集』)八巻に載っていますが、ローザを「一頭地を抜きん」でたマルクス学者と高く評価しています。『資本の集積』という重要な書物のなかで「『資本論』第二巻で現れた思想を最も明細に解説し、資本家的生産と帝国主義との間に横たわる必然の関係、すなわち植民地膨張政策と征服の関係を、余蘊なく説明した」と的確に論評しています。
 
 ローザが日本に紹介されたのは一九三〇年代前半で、当時は日本資本主義が発達する一方で、思想弾圧が始まり、マルクスやレーニン以外の著作を出版する必要があったからです。そしてローザの『資本蓄積論』は、帝国主義段階に達した状況のなかでの『資本論』のある種の読みかえで当時にふさわしい著作だったのです。
 
 一九世紀以降の世界システムは、経済的単位として資本主義経済、政治的単位としては国民国家体制が手を結んで展開してきたと言えると思います。資本主義経済についてローザは次のように指摘しました。「資本蓄積は資本主義的生産形態と非資本主義的生産形態とのあいだに行われる質料変換の過程である。非資本主義的生産形態なしに資本の蓄積は行われえないが、しかし蓄積なるものは、この面から考えれば、非資本主義的生産形態の咀嚼であり消化である」。
 
 さらに彼女はこう続けています。資本蓄積はまずもって農業などの先資本主義的生産形態を食い物にして行なわれた。苛烈な農業搾取によって農村から流れ出た流民は都市に集中し、自らの労働力を売る賃金労働者になった。資本蓄積によって生産手段を独占したブルジョアたちはやがて市民革命を起こして国民国家を形成した。農村を食いつぶしたブルジョア資本は、さらに餌食とすべき非資本主義的生産形態を求めて国外に目を向ける。帝国主義段階に入った資本は、軍事力で植民地を統括した。絶えざる戦争と異文化体験は、国民国家の国民たちに優越意識を植えつけ、国民的自覚を付与するにいたったと。
 
 ローザは、こうした資本蓄積は資本主義が永続していく限り常に必要であり、それは非資本主義的生産形態を絶えず食いつぶし、咀嚼し、飲み込んでいくと、非常に鋭い認識を行なったわけです。ローザのこのような認識を現代ドイツのクラウディア・フォン・ベルホーフや、マリア・ミースらのマルクス主義フェミニストたちは高く評価しています。
 資本主義経済の矛盾は、国内には利益の分配のための階級的葛藤、国外には資源の分配のための民族的葛藤を生み出すことです。それゆえいやおうなく反体制的な思想を抱え込むわけですが、このような資本主義批判の芽を摘み取るために利用されるのが、国民国家主義、ナショナリズムです。一国主義的階級闘争において先鋭に資本主義批判を行なっていた男性労働者たちは、帝国主義段階においては国家のためにたたかうナショナリストに変身しました。このことで誰よりも失望したのは、言うまでもなくローザでした。
 
 ローザの場合は、資本主義的搾取からも疎外された労働者として植民地経済の現地労働者を考えていたようですが、現代のマルクス主義フェミニストは、そこに国内外の女性労働者をも読み取ろうとしています。
 
 ここまでくれば、山川菊栄の先駆性が明らかとなるでしょう。山川菊栄のいう階級は、当時の正統派マルクス主義者の言うプロレタリアート、すなわち男性労働者にとどまらず、彼女の射程には、むしろ女子労働者が大きな位置を占めていたのではないかと思います。
 
 山川が最初に問題意識を持ったのは、自伝『おんな二代の記』によれば一九〇八年、一八歳の時、救世軍の山室軍平などと紡績工場に行った時のことです。山室たちの「労働神聖」と言う欺瞞的な言葉に憤ってこう記しています。「私はこの間、壇上でいたたまれないような思いで恥と憤りに身体のふるえるのを感じました。あのごうごうとうなる機械のそばで、一晩中睡らずに働き、生血をすわれて青ざめたこの少女たちの生活がなんで神の恩寵であり、感謝に価するというのか、この奴隷労働が神聖視されていいのか?」。
 
 初期の労作、一九一六年の「日本の婦人と健康問題」では「日本の官私立工場に傭われている九十万の労働者のうち、約五十万は婦人である。この五十万人のうち十万人は他の工業に従事し、残る四十万人は繊維工業に従事している。このうち生糸に十九万人、織物に十三万人、紡績に八万従事している。日本の主たる工業は鉄工業と繊維工業であるが、後者は右のごとく全部婦人によって維持されている形である。故に日本の工業の盛衰権は婦人の手にあると言っても過言ではない」。補足すれば、工場は「オヤコ式」と呼ばれる経営で、低賃金や長時間労働、仕事以外の手伝い、外出の制限、強制貯金などを課し得る擬制家父長制が貫通していました。
 
 このような厳しい労働条件のなかで、一八八六年山梨県雨宮製糸工場で女子労働者によって日本最初のストライキが敢行されたのです。一八九二年には甲府の矢島製糸で、一八八九年には大阪の天満紡績でストライキがたたかわれました。でも、男性労働者や運動家たちは全く冷淡で、戦後にいたるまで一貫して「無知無自覚な女工たち」という見方でした。一九一六年に友愛会婦人部が作られましたが、女性の経済的独立よりも女子修養論の対象と見なされていたということです。
 
 そのようななかで山川菊栄は、女性労働者の階級的位置を的確に把握し「世界のうち、私たち日本の姉妹のみ、永久に自己のために戦い、自己のために生きんとする高尚なる欲望、貴重なる向上心に眼覚むるの折なく、単なる慈善、救済、憐愍の目的物として奴隷の存在を続くることに甘んじえようか。私たち知識階級の婦人は永久に、私たちのより不幸なる姉妹を見殺しにしなければならないのであろうか。否、否、私は日本の女の一人として、日本の女の力を信ぜずにはいられない。その未来を信ぜずにはいられない」と叫び、「ああ姉妹よ、万国の労働者団結せよ」と結んでいます。
 
 「資本主義の社会における婦人がどれほど無智な、卑屈なものにされているかは、いまさら繰返すまでもない。賃金労働と家事と育児と貧困との幾重もの重荷に縛られて、新聞ものぞく暇のない無産婦人は、その貧困と屈辱との状態に対する原始的な、漠然とした、半意識的な反抗心を抱いておったとしても、さてそうした状態がなにに基因したことか、そしてその状態から解放されるにはどうしたらよいか、どうせねばならぬかについて、明確な、強固な意見や観察をもつことができぬ」(「婦人と無産階級革命」一九二二年)とも記しています。山川菊栄は、知識や発言の場を奪われた最底辺の女性労働者たちのために、一体何をなし得るかに煩悶し、自分の持つ力、理論的能力でもって彼女たちに伴走することを決意したのだと思います。
 
 彼女は、女性という理由で伝統的道徳を強要しつつ、一方では女性を教育や知的職業から排除し、他方ではその安価な労働力を底辺労働に酷使してはばからない資本主義のジェンダー分断政策を明らかにしております。そして、ブルジョア女性運動は教育や知的職業から女性が排除されていることを問題にし、そのことで男性を敵視しても、ジェンダー分断策によって利潤を得ている資本主義という構造的暴力体制を不問にふしていると指摘します。また男性運動家は資本主義という構造的暴力とたたかっても、そこに貫通しているジェンダー分断政策には無関心であり、構造的暴力の最底辺にいる女性労働者を無知なものとして蔑視し、彼女たちの階級的要求を踏みにじってはばからないと批判します。山川は「婦人を侮る労働者は自己を、自己の階級を侮る者である」「男性中心のブルジョア道徳をプロレタリアートの陣営にまで持ち来す者は、自覚あるプロレタリアートの名に価せぬ階級的裏切り者」と言い切っています。
 
 実はこういう「裏切り者」が日本のマルクス主義を担ってきたのではないかと、私は秘かに思っています。先日私の参加した研究会で「資本主義発達論争」を論じた人に、私が「当時の日本にマルクスの言うプロレタリアートがどれだけいたのか。大半は女子労働者だったのに」と質問したら、彼は考えたこともないというのです。それに比べても、山川菊栄の理論的先駆性はすごいと改めて思うのです。
 
 このような観点を持つ山川が、もう一つの非資本主義的生産形態としての植民地労働の搾取に関心を持つのは当然のことではないかと思います。「日本民族と精神的鎖国主義」(一九二七年)のなかで「日本の資本主義は海外への発展によって国内における搾取率を低められるものではない。否なその海外への発展と同時に、植民地の低廉な労働者との競争を余儀なくされるために内地労働者の地位はいっそう低下し中流生活者の無産階級化はますます急速度に行われる。…植民地労働者の流入によって激増する内地の失業者は、職を求めて植民地に流れ出す。かくして内地と植民地の労働者は互いに職と食とを奪い合い、生活標準を引き下げ合って資本家の御用を務め、その財力と勢力との拡大に役立っているのである」。
 
 山川は、資本主義の本源的蓄積は、階級、ジェンダー、民族間の分断を利用しつつ行なわれるのを見抜いていました。だからこそ、彼女は資本主義打倒のために階級、民族、ジェンダー間の分断を乗り越える必要性を力説したのではないかと思います。
 
●山川菊栄が残した課題
 
 山川菊栄は、売買春制度も資本主義的な構造的暴力によるジェンダー分断政策の産物と見なしていました。売春女性はその身体を搾取される点において、非資本主義的生産形態の最たるものと言えるのではないかと、私は思います。仲介業者は女性の身体を商品として利潤をあげるわけで、男性労働者は彼女たちを支配することを通して資本主義的生産労働者としての特権にあぐらをかき、資本主義体制との妥協を図っているのです。この問題に関しても、上野千鶴子さんは「性=人格」批判という道徳問題にすり替えて、経済的問題は言いません。この点でも彼女のマルクス主義フェミニズムはとても疑わしいと言わざるをえません。
 
  母性保護論争などでも、山川菊栄は敢然と「資本主義的な構造的暴力がある」と言い切っていることが注目されます。こうした論点から見れば、「今の資本主義的な経済システムのなかで女性がどのような地位に置かれているのか、どのような構造的搾取を受けているのか」ということが、最近のフェミニズムのなかでは抜け落ちてしまっているというところに気づかされるのです。
 
 山川菊栄は、資本主義にたいする男性労働者の抵抗は、妥協を重ねて中途半端な抵抗に終わるけれども、最底辺の女子労働者あるいは植民地労働者が自らの非資本主義的生産形態、根源的な搾取形態を認識し、自分たちの正当な人間としての要求を徹底的に追及したたかうことのなかで、資本主義の矛盾はますます拡大していくと捉え、資本主義という構造的暴力はそこから崩壊するであろうと見ていたのではないかと思います。これはローザが「資本蓄積作用で資本主義はその内部に崩壊の根を持っている」と言っているのと通底する議論といえるのではないでしょうか。
 
 山川菊栄はすでに戦中に、いわゆる帝国主義戦争そのもののなかに帝国主義が崩壊する芽が懐胎していることを見抜いていたのではないか。それが戦後の彼女のさまざまな活躍につながっていったのではないかと考えています。
 
 最近は左翼的理論のなかでも資本主義批判が希薄になってしまっていて、マルクスの資本論をどう現代的に換骨奪胎して戦闘性を抜きにして読みかえるかという動きのほうが強いようです。マルクスの『資本論』における資本主義批判の論拠を生産段階にではなくて消費段階にあるという議論などは、理論的には興味深いのかもしれませんが、そのことによって日本の生産労働のなかにあるさまざまな、問題への取り組みが疎かにされるのは問題です。
 
 日本が相対的に豊かになったなかで、資本家と男性労働者が既得権益を守ろうとして癒着する傾向が顕著になると思います。そのなかで、大きな企業体制のなかからはみ出た労働者たち、いわゆるインフォーマル・セクター、女性とかあるいは海外からの移動労働者とか、若者のなかでもいわゆるフリーターというかたちの労働が増大しているわけです。これから不況がもっと進んでいくなかで、危機的な状況が出てくるのではないでしょうか。ローザの見方にしたがえば、このインフォーマル労働に従事する人たちがどんどん増えていくところで、日本資本主義にたいする抵抗の場が拡大していくといえるのではないかと思うのです。
 
 今年一二月に、日本軍「慰安婦」問題の責任者を裁く二〇〇〇年女性国際戦犯法廷が開かれます。これは明らかに日本という資本主義国家にたいする挑戦となります。軍事暴力を持った国民国家は戦争することで大きな利潤をえるわけで、軍事資本主義というのは軍事と資本主義が癒着している形態です。いまアメリカ経済が相対的に上昇しているのは最近の二回の戦争があったからで、それを日本の支配層は見ていて、周辺事態法などを通して、軍隊を持った戦争体制に何とか移行しようとしているのです。
 
 フォーマルセクターの労働者たちは体制に癒着して利益の分配をあずかっていますが、他方インフォーマルセクターにいる女性とか若者とか、既成政治の枠組みに回収されない人たちがどんどん増えていくということは、日本資本主義の矛盾なわけです。山川菊栄の言う「ジェンダー、階級、民族」などの日本における被抑圧者側の人たちが自分たちの権利を主張していくということは日本資本主義を揺るがす力になると思います。私はこの点で山川菊栄にすごく共感を覚えたし、いまの状況に彼女の思想を当てはめていくことができると思っているのです。
 
■質疑討論
 
浅倉 大越さんはインフォーマルセクターと言われましたが、最近増えている「業務委託」労働者もそれに当たるかと思います。ILOでは九七年と九八年にコントラクトワーカー(契約労働)の保護条約を立案したのですが、世界中の使用者団体の反対にあってできませんでした。また「家内労働」「ホームワーカー」「デイワーク」と言われる労働もインフォーマルセクターに入るでしょう。とにかく労働法の保護が及ばない人がすごく増えていて、それが統計にすら表われないのです。そういうことと関連させて山川菊栄を読むヒントをいただいたと思いました。
 
丹羽 セクハラは構造的暴力だと思いますが、これが職場で禁止されたことは、労働運動のなかではものすごく突出したイレギュラーポイントだと思います。つまり、単身赴任はOKでセクシュアル・ハラスメントはいけないなんて、どこか変だと思うのです。だけど女性たちの人格権をかけての問題提起が表面に出てきたことは、その根っこを揺るがすことになっていくのではないかと思います。
 
井上 現代における非資本主義的生産関係とはどういうものですか。途上国への搾取も変わってきているのでは…。
 
大越 国家の階級構造がものすごく変わってきています。資本主義の構造的変革、つまり今日ではジェンダーや民族以外に知的能力、それから情報へのアクセス能力といった変数が入ってきて、階級が再編成されていくだろうという予想はできるのですが…。
 
丹羽 どうもありがとうございました。
 
[パネリスト略歴]
 
鈴木 裕子 [すずき ゆうこ]
 
 山川菊栄賞第二回受賞者。一九四九年東京生。『山川菊栄集』全10巻・別巻1巻(岩波書店、一九八一−八二年)の編集・解説で第2回山川菊栄賞受賞。
 
大越 愛子 [おおごし あいこ]
 
 一九四六年京都生。現在近畿大学文芸学部教員、専攻はフェミニズム理論。「女性・戦争・人権」学会運営委員。著書に『フェミニズム入門』(ちくま新書、一九九六年)、『近代日本のジェンダー』(三一書房、一九九七年)、共著に『「日本」国家と女』(井桁碧編著、青弓社、二〇〇〇年)、『ジェンダー化する哲学』(昭和堂、一九九九年)などがある。
 
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