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統一社会党綱領草案
           −いわゆる「右社綱領」

*出典は日本社会党中央本部機関紙局『日本社会党綱領文献集』(1978)。一九五五年五月七日、右社中央執行委員会で決定。2ページに分けて掲載。画像は1952年総選挙開票時の右社幹部。『日本社会党綱領文献集』掲載テキストをPDFで付す。ここ
 
 
 
前文
社会主義の目的と原則
党の性格と平和革命の方式
 
 
 
前文
 
一、二十世紀は、社会主義の世紀である。前世紀において、誕生、成長した社会主義は、今世紀において全世界の運命を担う巨人となった。今や、社会主義は宣伝、啓蒙の時代から、実践、実現の時代へと移ってきている。われわれは、正にかかる歴史的な世紀の中に生き、自信と情熱とを以て社会主義建設の大行進に参加しているのである。
 われわれの自信と情熱とは、われわれの勝手な空想の所産ではない。それは歴史の示す社会主義発展の厳然たる事実に基くものである。今簡単にその発展の跡を顧みて、われわれの将来の展望と活動との出発点とすることとしよう。
 
二、ルネサンスに始まり、フランス大革命において頂点に達した偉大な歴史的時期において、人間は封建制度を打破して、中世の暗黒の中から、近代の光明を産んだ。近代社会は、万人の自由と平等との基礎の上に人間性の解放を目指すものである。ここにおいて初めて人間は、封建性の桎梏をかなぐり捨てて、何者も奪うことのできない人格の尊厳に目覚めたのである。
 
三、この近代社会において、資本主義は十九世紀以来、巨大な生産力を発展させ、科学、技術の進歩と相まって、世界の歴史に新しい時代を開いた。しかしながら同時に資本主義は解放された人間を貨幣の奴隷たらしめ、万人の自由と平等とを実現することに失敗した。資本主義は、また著しい貧富の差を生ぜしめて、階級闘争を激化し、生活の安定と幸福とを、大多数の人民にもたらすことができないことを暴露した。さらに、資本主義は帝国主義的膨張と植民地搾取とを展開し、かくて、国家間、民族間の紛争を激発し、今世紀における二度の大戦の有力な原因となり、近代文明に大きな破壊をもたらし、全世界の人民に深い苦悩を与えた。
 
四、資本主義が民主主義の徹底のために桎梏となることが次第に理解されるにつれて、近代社会の理想を実現させるためには、資本主義に取って代る、より高い社会制度−人間が人間を搾取することのない制度−が必要であるとせられるに至った。社会主義がすなわちこれである。資本主義によって作り出された賃金労働者という新たな階級は、資本主義の弊害の最も直接的な被害者であったから、社会主義思想を最もはやく受入れ、その運動の有力な担い手となった。社会主義はさらに、資本主義の下において圧迫と苦悩とを感じているその他の市民−農民、漁民、職人、小売商人、事務員、自由職業者、技術者、芸術家等−−の間にも大きな共感を呼び、かくして、社会主義はそれぞれの国において、社会主義に未来の鍵があると感じているすべての人々が担う広い国民的運動となった。この運動の結果、生産技術の目覚ましい進歩と結びつき、資本主義もそれ自身の内部に国(公)営企業の増大、社会保障制度の拡大、労働組合の経営参加、各種協同組合の発達等の方式を採用せざるを得なくなった。かくして資本主義より社会主義への変革は階級間の権力闘争や暴力革命を媒介とすることなく、自由と民主主義とを通じて成就されることの保障がますます確実となってきた。以上が資本主義の発生地であり、かつその最も発達した地域であるヨーロッパにおいて、社会主義の発展してきた道である。
 
五、植民地や後進国における社会主義の発展は、上述の如き先進国におけるそれとは、かなり異っている。これらの地域における資本主義は、外国資本家と土着資本家との二重の搾取という形をとり、そのため土着民の生活は、長い間甚だしい貧困と圧迫との下に苦しめられ、民族としての文化の進展さえ望みえなかった。このような状態は、当然外国の支配に反対する民族自決運動をして、内外資本家の搾取に反対する社会主義運動と提携せしめるに至った。社会主義はヨーロッパの社会主義者からこの地域に伝わり、その後民族運動の中で次第に成長し、特に第二次大戦後、急激な発展を示した。ここにおいては、社会主義は民族運動の最も正しいかつ最も有力な推進者となっている。
 
六、社会主義は、第一次世界大戦終末前後から、強力な挑戦に直面するに至った。その挑戦は、二つの陣営から行われ、しかも、そのいずれも、社会主義を名としその仮面をかぶって出現してきた。
 
 一つはイタリアのファシズム、ドイツのナチズムがそれである。ファシズム、ナチズムは、自由な労働運動と民主的な社会主義政党とを禁止して、人民の政治的自由を抑圧し、また、国際平和を破壊して、人類を第二次世界大戦の惨禍にさらした。
 もう一つは、ロシアにおけるボルシェビキ革命以来、世界革命を目指して膨張を続けている国際共産主義がこれである。共産主義は、全世界にわたって社会主義運動ならびに労働組合運動を分裂させ、多くの国において、社会主義の実現を数十年にわたって阻止した。国際共産主義は、新たな型の帝国主義の道具であり、それが政権をとったところでは、党の支配の下における中央集権的な指導に、完全に個人とグループとを従属せしめる制度に堕してしまい、自由と民主主義とは踏みにじられ、社会主義運動は完全に禁圧されている。国際共産主義は、社会主義の堕落であり、社会主義を産み出した近代社会のヒューマニズムを、根底から破壊するものである。
 
七、日本は、明治維新を契機として、西欧列強の西力東漸に対抗する独立国家としての第一歩を踏み出した。明治政府の目的が、富国強兵に置かれたのは、かかる歴史的背景の所産であった。日本は、この富国強兵策のおかげで、アジアの他の諸国と列強の植民地たることを免かれ、その資本主義は急速な発展をとげて、アジア諸国の中で、重工業をもつ唯一の工業国を建設することに成功した。しかし、それは、外、西欧列強の帝国主義的侵略に対抗して自らもまた対外膨張の挙に出、内、徳川時代より受け継がれた封建制の遺物を徹底的に一掃し得ず、そのため、人格の尊厳を基礎とする自由、平等の市民社会を創出することができなかった。従って日本資本主義のかかる特殊性は遂に満州事変(一九三一年)を契機とする軍部の台頭をもたらし、民主政治を踏みにじった独裁制の下で、日本をして列強の権力政治の渦中に投じ、第二次大戦に突入するに至らしめた。
 
八、上述の如き特殊な性格を持った日本の社会の中で、勤労者は、甚だしい貧困と圧迫との下に呻吟してきた。この苦悩は当然、わが国における社会主義運動の発生を促す基盤となった。
 日本の社会主義は日清−日露戦争の時期に早くも発生し、その後、第一次世界大戦後に、国民的な規模にまで拡大し、各地における労働争議、小作争議となって現われてきた。また、それと共に、ロシア革命の強い影響を受けて、マルクス・レーニン主義が急速に浸透してきた。
 
 日本の社会主義は、まず第一に、日本資本主義が解決し得なかった課題、すなわち、封建的残滓を一掃し、自由、平等の市民社会を創出することを解決するため努力した。またそれは、前述した日本の支配勢力の侵略政策に対して、終始一貫反対を続けてきた。しかしながら、その運動は強大な支配勢力の弾圧を蒙り、また共産主義の分裂政策の影響を受けて、常に内部抗争と分裂とに悩まされ、従って社会主義の正常な発達は甚だしく阻害せられた。
 
九、第二次大戦を経過して、イギリス、スカンジナビアその他の西欧諸国においては、社会主義勢力は、あるいは単独で、あるいは連立して、政権を獲得した。しかし、既得権益を擁護せんとする資本主義の勢力は依然として強力である。
 
一〇、巨大な牲犠[ママ]と破壊とを伴った第二次大戦によって、ファシズム、ナチズムは克服された。世界に再び戦火を招かないという人類の固い決意に基いて、国際連合が誕生した。国際連合の目的と憲章の諸原則は、恒久平和維持の唯一の現実的な結晶であり、国連は国際平和と協力のために重要な役割を果しつつある。しかし国連の構成と運営は、世界平和の理想を去ることなお遠いものがある。不幸にも世界は、第二次大戦後米ソをそれぞれ先頭とするいわゆる「二つの世界」に分裂した 国際共産主義の帝国主義的侵略は、東欧衛星国の支配、チェコのクーデター、朝鮮戦争という露骨な形をとって現われ、これに対して、アメリカを先頭とする民主主義諸国は、団結してその侵略に対抗する処置を余儀なくされた。
 
 しかしながら、これらの処置の中で、アメリカを始めとする自由世界の一部には、恐ソ・ヒステリーに取りつかれて、反動的政策をとる傾向が現われ、これが「二つの世界」の対立抗争を一層激化させている。
 一方において、二つの陣営の勢力抗争に対して、いずれにも不介入の政策を標榜するアジア、アフリカの諸国もある。国際緊張の緩和と恒久平和の確立は、国連がこれらの動きに対応しつつ、本来の理想を達成し、真に世界一体化を実現するにある。
 
一一、全世界の社会主義者は、国際共産主義の露骨な挑戦に対抗して、社会主義の伝統たる自由、平和、民主主義を守り、社会主義の世界的推進を実現するるために、ここに団結して、国際的な組織を作った。社会主義インターナショナル(一九五一年)、アジア社会党会議(一九五三年)がこれである。社会主義者は、この両組織を通じて、その団結をますます強固にし、一方においては、国際共産主義に対抗すると共に、他方においては、世界に残存する資本主義、帝国主義と闘っている。
 
一二、日本は、第二次大戦の敗戦によって重大な打撃を蒙った。海外植民地は一挙にして失われ、八千万の国民は戦争によって荒廃し切った四つの島に困難な生活を維持しなければならなくなった。戦勝連合国がとった一連の民主化政策−−軍隊の解散、警察の分散、財閥解体、農地改革、労働三法制定、新憲法制定等−−は結果として、戦前、社会主義者の努力にもかかわらず、殆んど認められなかった民主主義的自由を発展させる基礎を与えた。しかし、その基礎は、日本社会の近代化の末成熟という過去を背負っているため、異常な努力なくしては、その上に民主政治の確立を完全に可能にするほど強固なものではなかった。また、日本の保守勢力は、自己の権力を保持するのみに汲々として、アメリカの反動的勢力の誤まれる対日政策さえこれを利用し、民主政治の確立に熱意を示さないどころか、その基礎さえ掘り崩そうとしている。民主主義を徹底させ、その基礎の上に社会主義を実現する役割は、社会主義勢力の肩にかかっている。
 
一三、日本の社会主義者は、第二次大戦終了の年(一九四五年)の十一月二日、大同団結して日本社会党を結成した。
 これは日本の社会主義運動史上、正に画期的な事件であり、戦後の社会主義が、戦前とは比べものにならぬ程の威力を発揮し来った要因の一つは、実にここに存する。
 
 日本社会党は、上述の如き、民主化政策の厳格な実施を闘いとるために奮闘し、さらに進んで、日本の終局の目標は、確立された民主主義的自由の基礎の上に社会主義社会を建設する以外にはあり得ないことを国民に啓蒙するために、多大の努力を傾注した。
 日本の歴史始まって以来、最初の社会党首班内閣たる片山連立内閣を成立せしめた原動力は、実にかかる努力の成果であった。
 
 しかし、芦田内閣倒壊後、日本社会党は、国会における議席を激減し、さらに、平和条約をめぐって内部の意見の対立を来し、一九五一年十月、不幸な分裂を招いた。
 その後、社会主義勢力は一九五五年二月の総選挙においては、国会の三分の一以上の議席を確保して、その抜くべがらざる政治的影響力を天下に示したが、同時に統一問題を具体的日程に上らせた。
 
一四、第二次大戦後、日本は、自由世界に帰属してきた。そして自由世界の実力者たるアメリカと、世界戦略上カナメの地位を占めている日本とは、相互依存の関係にある。しかし平和条約発効によって日本は独立したが安保条約に基いて、米軍が駐留しており、この状態は、安保条約、行政協定の不平等性と相まって、日本の対米関係を著しく不利にしている。
 また、日本経済の弱体は、アメリカ経済への依存度を一層深めてきている。ところが、日本の支配勢力はアメリカの恐ソ・ヒステリーから生ずる反動政策を批判し、自由世界の公正なる世界政策樹立のために努力するどころか、むしろ、その反動政策を利用して、日本の民主主義に逆コースを辿らせ、経済自立を遅らせている。
 
一五、一方、日本の共産主義勢力は、国際共産主義の指令に基づいて、日本を内部から攪乱し、その侵略を招く素地を作るために、国民の反米感情をあおり、民族意識を利用する巧妙な戦術を用いて、国民の間にその影響を拡大しようとする必死の努力を続けている。
 そして現在、日本社会党は、彼等のこの人民戦線方式の直接の目標となっており、共産主義のこの戦術は日本における社会主義の順調な発展の大きな妨害となっている。
 
一六、日本の社会主義は、まず第一に、保守勢力が実施しつつある反民主的な政策に反対し、これを阻止して民主主義を徹底させるために努力しなければならない。また共産主義の真の意図を国民の前に明らかにし、民主的な社会主義のみが、日本に自由と幸福とをもたらすことを示さなければならない。
 さらに進んで、全世界の社会主義勢力と提携し、「二つの世界」の対立から生ずる国際緊張を緩和して世界の恒久平和を実現するために奮闘しなければならない。
 その具体的な政策は、運動方針において、詳細に示されるであろう。
 
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