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日本社会党(左)綱領清水私案2
 
3 戦略展開の方向−−平和四原則の戦略的意義
 a 民族政権の権力基礎の培養
 われわれの党活動が、社会主義革命に直結する民族独立を戦略の基調とする以上、われわれの樹立すべき政治権力は、労働者、農民、中小企業主、インテリ層等の諸階層からなる国民的基礎に立ち、好意的資本家をも加えた民族政権となるべき筈である。
 だが、われわれの陣営の主体的条件の未成熟から、現在直ちにこのような政治権力を完全な形で打ち立てることは著しく困難である。現状の如き組織力と行動力では、かりに国会の多数を制しようとも、実力を背景とする超憲法的帝国主義支配に対して一つの屈辱条約破棄すら貫きえないであろう。更に、その報復措置を受けるならば、簡単に隷属勢力のために政権を奪いかえされるであろう。それどころか隷属諸勢力の海外の支援を頼みとする反政府的サボタージュにさえ十分には対抗できないに違いない。

 それゆえに、われわれは、何はさておき、強固なる民族独立政権樹立のための基礎工作を行わなければならない。安定した民族政権を断固たる社会革命担当の政治権力に直結させてゆくために、強固なる権力基礎を大衆の中に組織的に培養してゆかなければならない。わが党の第一の組織的任務はここにある。中央、地方の議員数の増加も、権力基礎培養過程の上に立ってこそ重要な意義をもつ。
 それゆえに、党組織を行動化し、都市の職場や居住地域、農山漁村における党組織を中核に、具体的な日常闘争のためのカンパニアが全国津々浦々にまで組織され、それが集約されて全国的な民族的カンパに高められてゆくことが大切である。

 この民族的なカンパニアは大体三つの戦略幹線を通じて一つの運動に成長する。
 第一の幹線は、平和運動を通ずる完全独立の要求。第二の幹線は、国際平和のための努力と中立外交の要求と実践、第三の幹線は、内外独占資本の搾取構造への挑戦(民主主義の防衛と統一的生活要求)である。
 b 平和運動を通ずる完全独立の要求
 われわれは平和四原則を掲げ、これを守り抜くためには党の分裂さえ甘受してきた。それゆえ、この党活動の基調ともいうべき平和四原則に、社会主義革命の戦略路線の中で正しい位置付けを行うことは、党活動にとって最も必要なことの一つである。
 われわれは、平和四原則の立場から、平和憲法の擁護、軍事基地反対、再軍備反対、等の平和カンパニアを計画し、大衆的カンパとするために、労働組合や文化人と共同歩調をとってきた。この行動をわれわれの戦略路線から解明するならば、軍事基地もない非武装日本は、帝国主義支配者にとって一文の価値もなく、従って軍事的価値を骨抜きにすることによって平和の内に帝国主義支配をのがれ、独立の条件を獲得するということである。

 われわれは又、M・S・Aと対決し、平和経済五ヶ年計画を策定した。それは「平和と独立」の政治スローガンを経済的に裏付け、自立経済の計画的確立を通じて社会主義的前進の条件を具体的に見出してゆくための、政策的アピールであり、平和経済を求める大衆の組織的行動と相呼応するデモンストレーションの一環でもあった。自立経済への具体的な追求は制度としての日本資本主義が対米隷属に陥った現在、かれらの自信を喪失せしめ、社会主義革命への移行を容易ならしめる。
 平和カンパニアを通ずる民族独立の要求は、平和的手段を通ずるものでなければならない。
 国会の多数ということは、単に国内的な民主的手続きにとどまらず、諸外国に対するわれわれの国際的権威を此上なく高からしめ、外国からの干渉ないし反革命への援助を防ぐため、国際的与論を味方とすることさえ可能ならしめる。
 又、武力行使による独立運動は、帝国主義支配国の武力弾圧を挑発し、かりに若干成功しても二つの日本に追いこむのが関の山である。共産党の山村工作隊を拡大してゆくような辺境政府のまねごとは、わが国の場合、大衆の支持を失い、逆に傀儡的ファシズムを招くばかりである。

c 国際平和の努力と中立外交の展開‐−−第三勢力の課題
 平和四原則は、その国際的立場として米ソ両体制に対する中立堅持を基調とする。党は中立の立場において、戦争回避、世界平和の確立をめざして第三勢力論を展開し来った。
 第三勢力の定義について、党内の意思統一は必ずしも十分でなかったが、最低綱領として次の二つの内容は不可欠である。
 その第一は、米ソ両勢力の何れにも従属しないこと、第二は、両体制の対立に加担せず、戦争回避につとめ、進んで両体制の平和的共存を期待し且つそのための国際的努力に参加することの二点である。

 従って、第三勢力の立場は、向米向ソいずれの一辺倒でもなく、又、偏狭なる反米反ソの殼にとじこもるものでもない。平和の風は東西いずれから吹こうとも、これを歓迎し、自主的立場において協力を惜しまないものである。
 このような世界平和への努力、自主中立外交の展開は、独立達成の基礎条件の確立となる。米ソ両体制の平和的共存が現実のものとなるならば、完全独立を阻害する国際条件は弱まるし、自立経済のための貿易条件も完全なものとなる。更に、根本的には、平和経済に自信を欠く日本資本主義を打倒する客観条件を招来させる。
 d 内外独占資本の搾取構造への挑戦−−統一的生活要求と民主主義の防衛
 政治的カンパニア、とくに政策要求カンパニアは、地域や職場の日常闘争の組織活動に結合され、支えられるとき、はじめて持続性をもち、迫力が出る。大衆路線のものとなる。
 アメリカの帝国主義支配は、日本の独占資本とその権力組織、搾取構造を全体として隷属させ、その活用によって、自己の帝国主義政策を効果的に伸張させている。日本の労働者や農民、中小企業者等の諸階層は、帝国主義支配の枠内で、多くの場合、直接には日本の独占資本の搾取と闘う形となっている。だから、その外からの枠が厳重になればなるほど、国内の階級闘争は、自然発生的にも、外の枠への激突の様相をおびざるをえない。中ソとの貿易再開の要求が、きわめて身近な大衆闘争の中からも自然に湧き出ているのが現状である。

 同時に、アメリカの帝国主義支配は、日本の独占資本が国内においてゆるぎない力を持ち続けることをこい願い、そのための援助を積極的に展開している。だから、日本資本主義との日常闘争が、その搾取構造のアキレス腱に迫る闘いに発展するならば、それは客観的に内外独占資本の搾取構造との対決になる。
 それゆえ、アメリカの政策に直接間接端を発する労働者や農民の闘争はもちろんのこと、日本資本主義のよって立つ支柱を掘り崩してゆく闘争、たとえば、低賃金、低米価によって象徴される日本型搾取構造に対決し、企業別の労務管理型賃金体系、賃金格差を否定して統器貝全要求を統一闘争によって闘う場合、あるいは企業別の職制支配に対し、職場闘争、職場交流を軸とする統一労働協約闘争、組合活動を封殺する悪法に対する民主主義擁護の闘争、更に生産費をつぐなう米価を要求する農民の闘争、これらはすべて身近な日常闘争であり、そういう闘いとして戦列はしかれるが、党の角度から見るならば、内外独占資本の搾取構造に迫るアキレス腱闘争として理解されねばならない。党はこれを選挙の得意先に対するサービス闘争にとどめてはならない。これらの闘争の内包する本質的な課題は、党と党の組織が積極的に取上げてゆく分野であり、党がこれを傍観し、組合やその他の日常闘争組織が直接伴行して処理しようとするならば、組合という組織の本質上、無理をおかす危険が出てくる。政治偏向の非難さえ誘発させる。
 党が、このデリケートな戦術的使い分けを、積極的に処理する能力と習慣がつくならば、党は行動的な党として評価され、日本の組合運動は、戦闘的安定性を確保しうるであろう。
 
(四)平和革命を基調とする組織的革命方式の提唱
 社会主義革命には万国に共通の型もなく、あらゆる客観条件に適応する定式もない。その国、その時代の社会的条件にしたがって異なる形態をとる。
 われわれは、現在の戦略段階を民族独立闘争の時期と見、それは客観的条件、主体的条件いずれから規定しても社会主義革命に直結しうる性質のものであると断定した。
 同時に又、わが国をめぐる国際環境とアメリカの圧倒的な武力を想定するとき、朝鮮やインドシナのような二重政権による民衆の苦しみを回避しようとする限り平和的手段以外に効果的な方式はありえないと結論してきた。
 それならば、平和方式を単純なる議会方式と規定すべきかというに、もちろんそうではない。単なる人気による多数では、社会党政権はできても、それは民族政権にも社会主義政権にもなりえない。
 内外相呼応するわが党政権打倒の工作を防ぎとめ、進歩的政策の遂行をサボタージュする反動分子(官僚内部、銀行会社、農漁村内部の)を抑圧しうるだけの組織基盤を、前項に述べた諸闘争を通じ、権力基礎として用意しなければ革命政権だりえない。けだし、わが国の場合、民主的憲法があり、立憲法治国の外形が一応ととのっているにしても民主主義は下部に浸透しておらず、反革命の要因は至るところに伏在しているからである。

 しかしながら、それにもかかわらず、わが党は、国会における絶対多数を必要不可欠と確信する。それはわれわれが民主主義者だからというにとどまらない。憲法に保障される直接無記名の普通選挙が励行される限り、その手続きによる政権がもっとも国際的に権威をもつからである。民主主義の法則にかなう方式が、もっとも国民的確信をもたせるからである。
 それゆえ、現状におけるわが党の革命方式を規定するならば、『平和革命を基調とする組織的革命方式』と名付けるのが至当である。
 
(五)過渡的政権と共同戦線の可能性
 わが党当面の任務は、社会主義革命に直結しうる民族独立政権のための権力基礎を培養することであるが、その過程において、特定の条件獲得のため(たとえば、悪条約の改廃、わが国の中立を承認する条約の締結、中ソ両国との平和関係の確立、貿易の再開等、又、国内的に憲法擁護、再車備反対等のため)、他党との間に、目的・条件を協定して連立政権をつくり、政府部内に入ることをあながち拒否する必要はない。このような共同戦線内閣は、それ自身完全な民族政権とはなりえないであろうし、いわんや社会主義政権ではありえない。いわゆる特定の条件闘争のための過渡的政権であって、このような政府を構成する場合はたとえわが党が国会の議席の過半数を獲得していようとも、原則として幅広い連立政権をつくるべきであろう。
 党の現状から率直に見るならば、政権の問題に関する限りこのような連立政権のみが当面現実的な可能性をもつと断言しても差支えないであろう。

 下部組織の日常闘争における共同戦線は、真に大衆がこれを熱望し、他の党が大衆的基礎に立つ場合(共産党にありかちなハッタリや独断でなく)、党の主体性を失うことなく、共闘条件を相互に厳守しうる限り、これを無条件に回避して、自らの枠をせばめ、行動性を喪失する必要はない。大衆の中に入り、大衆路線に身をおいてこそ、真に党は大衆の信頼を獲得し、組織を拡充し、将来の革命政権の権力基礎を固めうるのである。この場合、判断の基準はあくまで大衆にあるのであって、少数尖鋭の職業革命家的ブランキストの一団にのみ目を奪われてはならない。
 かくしてこそ、党は、現在とかく陥りがちな選挙カンパニア政党の弊を脱し、選挙活動は不得手でも政治意欲にはみちみちている活動分子を党組織に加えうるのであって、党の職場組織の如きも、党活動を選挙カンパニアに限定しないことによって真に確立することが可能となる。
 
 
反対提案の理由
                                            (『社会主義』一九五三年一二月)
(一) 綱領原案は、党の理論上の聖書のような性格のものとして、第二インター系の形式的伝統に則り、予定された理論的目標に向って、あらかじめきめられた理論的な枠にそいつつまとめられている。従って、教科書的ないし学術論文的色彩の豊かなものとなっている。
 私は、このような態度で「上の頭の中で」ワクをかけてゆく綱領の実践的価値を疑うものである。社会主義を実現するものは大衆とその組織であり、従って、社会主義政党の行動基準は現在の大衆組織とその行動、未組織大衆の意欲と感情の中から出発し、客観条件に具体的に適応してゆくものでなければならない。綱領は何よりも組織的任務に堪えるものであるべき筈である。社会主義インター系の綱領形式がどうあろうとさして問題にする必要はない。

(二) 党は平和四原則の旗を高く掲げて前進した。分裂を賭して四原則を守りぬき、四原則を守ることによって、その後党勢は拡大した。今生れでる党の綱領は、この四原則の戦略的意義を明らかにするものでなければならない。それは本部原案のように単なる外交政策として、政策綱領の一隅を占めるものではない。
 全国数多くの労働組合が四原則をめぐって討論を繰返したことは、一つの政党の一つの外交政策の賛否の問題ではなく、党と組合を問わず運動全体を貫く戦略的な課題であったからである。

(三) 政党の綱領は権力闘争のためのものである。従って、日本資本主義の過去の歩みに対して、一つの学派の立場から公定解釈論を行う必要はない。それは党の門戸を狭くするばかりである。綱領は、戦後日本の権力分析から出発し、権力構造を明らかにし、権力掌握のための組織展開のプログラムを示すだけで十分である。

(四) 綱領の内容に関する原案との著しい相違点は、敗戦日本の政治権力の所在ならびに権力構造に関する認識である。
 原案が日本の政治権力を日本独占資本の自前の政治権力と解するのに対し、私は敗戦日本を支配する最高の権力は、講和条約の前後を問わず、アメリカ帝国主義の側にあり、日本の独占資本はその授けられたる任務をになうために援助され、その存在を政治的経済的に保証されていると見るものである。アメリカ帝国主義の許容する枠内において、日本の独占資本はその搾取構造と権力組織を温存強化しつつあるのであって、この段階における社会主義政党の綱領は「アメリカ帝国主義下の行動綱領」という性格のものであるべきだと確信する。従って又、政局の基調は日本の独占資本に対する単純な「保守対革新」でなく、明確に「隷属対独立」の対決でなければならない。

(五) 政治権力に関する理解の相違は、必然的に、革命のプログラムについて根本的な意見の対立となる。
 原案は、単純に、階級闘争↓社会革命という割り切り方をしており、アメリカ帝国主義に対しては、日本の独占資本が自らこれをよりどころとする限り、副次的に、即ち日本の独占資本に対する闘争の一環としてこれを取り上げるという態度である。

 私は、これに対し、帝国主義下の行動綱領と規定する以上、当然、帝国主義支配に対する民族的闘争が戦略的な基調となると確信する。民族資本という特殊な階層がないから民族闘争でないとの反論は単なる公式論に過ぎない。又、民族資本という固定した階層が既に存在しないわが国では、民族闘争は当然内外独占資本の二重の搾取下にたたかう労働者階級によって持続的に担当されることになる。又、対米隷属の中でその経済循環を保証されている日本の資本主義は、完全独立によって大きな動揺を余儀なくされ、このことは社会革命の条件として高く評価されるべきであると考える。それゆえ、私は革命のプログラムとして「平和↓独立↓社会革命」という基本戦略コースを主張するものである。
 原案の日本の民主主義に対する評価は甘過ぎる。私は戦前とくらべて、形式的意味の民主主義が、逆コース下の現在とはいえ、大いに前進していることをもちろん承認する。又、平和革命を否定したり放棄するものではない。
 だが、現在程度の民主主義の浸透度合では無条件にこれを評価礼讃し、これに依存するわけにはゆかない。少なくとも社会革命を問題とする場合、国の内外から襲いくる反革命工作をくいとめ、逆に建設面を担当してゆける実力のある組織基盤を用意することなく、又そこに組織的な戦略目標をおくことなく、選挙にすべてをゆだねるような簡単な平和革命論では、職場で日毎職制の非民主的圧迫を体験している組織大衆の共感を呼ぶことさえ至難のことである。そのようなことでは、到底、組織的任務に堪えうる綱領とはいえないと確信して、あえて反対提案を行った次第である。
 
 
【本著作集編者注】
「左社綱領清水私案」については、一九五三年九月下句に綱領委員会に提出されて以来、清水が直接関与したと思われる複数の版が存在すると推定される。公刊されたものだけでも、『社会主義』一九五三年一二月、綱領研究会発行の『討議資料』(No1)一九五三年 二月一〇日、『抵抗』一九五三年一二月一五日などがあり、他にガリ版刷り版が少なくとも三点残されている(発行主休や発行時期は不明)。しかし、これらの版には、それぞれに異なる箇所での脱落や異同があり、一つの版に依拠することは難しい。
 そこで、本著作集は清水の手元に残された自筆原稿を底本とすることとした。自筆原稿の執筆の執筆時期は不明だか、各版を比較検討した結果、各版に共通する誤字も見られないなど、総合的に見てもっとも信頼がおけると判断されるからである(自筆原稿にある明らかな誤字は訂止した)。したがって、これが現時点における「決定版」ということができる。

 また、付属文書である「反対提案の理由」については、公刊されたものと残された自筆原稿の間には大きな相違があるが、公刊されたもの相互の異同はほとんど見られないため、ここでは公刊されたものを優先することとし、「清水氏のご希望で掲載」(編集後記)された『社会主義』一九五三年一二月を底本とした。「私案」全体のタイトルも『社会主義』に拠った。因みに、自筆原稿では「行動綱領草案(一)(清水私案)」となっている。
 なお、文頭の「目次」にある「政策綱領」「組織綱領」(いずれも「別冊」とある)は、どこにも発表されていない。したがって、「清水私案」は、ここに掲載したものがすべてである。
 
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