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社会党はなぜ解体を余儀なくされたか(2)

                                                                       大隅保光
 
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6、日本社会党は独自の調査、分析で情勢に対応できなかった
 社会党の書記局には、最盛時には二〇〇名を越える職員がいた。国会議員の秘書には、サラリーマン的な人や議員の親族も多かったが、優秀な人もいた。専従的人材は、数的には極めて豊富であったにもかかわらず、それを有効に生かして、調査、研究の砦とすることはなかった・そういう体制をつくろうとした人はいたが、結局、議論倒れに終わってしまった。政策審議会を中心に、一応は調査、研究の機構はつくられ、局長以下のスタッフはいた。しかしその作業の中心は、国会審議の整理や党方針の文章化などが多く、独自の調査、研究活動にもとづく行政側資料の批判、現状の分析と対応方針の確立には至らなかった。その必要性は語られ、秘書団を党本部の指導下において体制を補強しようなどの議論はときどきなされたが、実行は難しかった。議員の「当面の必要」を最優先させるという体質は変えられなかった。後には、全国大会代議員数も国会議員数の増減にあわせて決めるという、党内民主主義の否定すらまかりとおってしまった。
 党独自の調査、研究がきわめて不十分なままでも差障なかったのは、各労働組合がそれぞれの「調査、研究」をして、その資料とともに政策要求や闘争課題についての要請をもってきたからであった。といっても、労働組合の調査というのは、多くの場合、経営側の調査の借用であり、その業界周辺の事態に対しては詳しいには違いないが、内容を全面的に信頼できるものではなかった。それにしても労組の力を基礎に、国会での論戦や全国的な闘争、各地での地域的な闘争の課題を把握することはできた。「総評政治部」という酷評もあったが、一方では、当時はマスコミも、種々の市民団体も、データの集積が不十分であったから、それなりに社会党が役割を果たせた、という事情もあった。マスコミや各種団体がデータを集め、全国ネットで問題を指摘し、報道を行なうようになると、党独自の調査、研究をできない社会党の弱さが露呈するようになり、政策提起の能力のない政党(売れる商品の乏しい商店)というイメージが定着してしまった。それがまた、支持者の社会党離れの一因となった。
 それは全国的傾向でもあった。地方でも政策はほとんど議員まかせであり、一般党員のほうは職場闘争で育った層が多く、地域活動(市民運動や、PTA、町内会などへのかかわり)には全く弱く、そういうところにエネルギーを使うことへの否定論もあった。選挙時のローラー作戦や総対話運動、署名活動のときだけは職場の党員もでてくるが、その他は議員まかせであったといって過言ではない。その議員が政策づくりに使う資料はほとんど自治体側からでてくるものであった。そのために議員から関係職員への資料提出要求が激しく、それも急であったり、思いつき的であったりで、職員からは嫌われるタイプになり、仲間だからと笑ってすませない現象も少なくなかった。演説をしたり、行政側を攻撃する力はあったが、政策づくりは不得意であった。
 
7、バラバラな党建設で独自の全国的運動をつくれなかった
 社会党はいろいろな弱さ、とくに労組機関に依存し過ぎの傾向が強かったが、たえず党としての反省はあり、自立にむけた努力はあった。有名な「成田三原則」(労組機関依存、議員党的体質、日常活動の不足からの脱出)にあるように、日常活動の強化、機関誌中心の党建設(『社会新報』日刊化をめざす)、指令第四号による職場支部建設をすすめながら地域との結びつきを強める党建設方針、百万党建設をめざす組織拡大方針、市民相談室の設置による党建設など、様々な試み、取り組みがあった。しかしいずれも全国的な成果には結びつかなかった。もちろん、真剣に取り組んだ県本部、総支部は少なくないし、多くの教訓も残されているが、アンバランスが大きかった。
 まず、党の基礎組織である末端組織(支部)のあり方、位置付け論議がばらばらであった。党の支部組織は伝統的に地域支部制であったが、指令第四号というのは、まず職場支部を建設し、党員を鍛えてから地域に戻すというものであった。その実践が提起されたのは、反合理化闘争についての議論が盛り上かっている時期であり、レーニンの党建設論の学習が広まっている時期でもあった。その指令をうけて、一斉に職場支部制に移行するところと、それを無視して地域支部制に固執した(選挙優先)ところとに別れた。それは「反合理化闘争優先」と「選挙優先」ということでもあり、社青同・協会型と反協会型とに分けて、党を語る人たちもいた。
 機関紙『社会新報』中心の党建設は、山本政弘機関紙局長の時代に、全国的に呼びかけた運動であった。これを「協会型」という人たちもいたが、紙代からの還元分や、三〇〇部以上は専従総分局として本部から補助金もでたので、協会、反協会を越えた運動になった。しかし日刊化方針は、一九八〇年の日刊化計画発表があったものの、挫折した。
 しかしこの活動は、地方組織のなかに多くの活動家と専従者をつくりだした。『新報』拡大運動は党員を中心とする人間関係拡大を、読者拡大として集約した。さらに一般党員も議員も、『新報』の配布は一応はするが集金は苦手という共通の弱さがあった。しかしそれも、配布集金活動を継続するなかで体質改善されたし、全党員参加の活動によって、党員どうしの連帯感が高まった。専従総分局では専従者を中心に党がまとまり、運動の点検と集約がすすみ、また運動分野が広がるという好循環も生み出された。名寄、会津若松、秩父、高松、鹿屋などはモデルとなり、北海道、東北、関東の一部、四国、九州などでは、この運動をとおして党内の活動家層が厚くなり、地方議員も増えた。日刊化にむけて「三〇万新報」実現をめざしたが、日刊化にむけた配布集金活動の強化、党員の参加義務化を好しとしない(機関紙活動にあまり取り組んでもいない)総支部や、国会議員の「レーニン主義党建設論批判」もあって、実現しなかった。

 こうした党内の、左右対立とも言える抗争は、「左社綱領批判」対「構造改革論批判」の論争に、ソ連派と中国派の対立という要素が加わり、加えて佐々木派、勝間田派、江田派などの争いがからみ、さらに総評、各単産幹部の意向なども錯綜していた。だから全国単一組織としての日本社会党であっても、実態は様々であり、反安保闘争、三池闘争の全国的盛り上がりの後には、真に統一闘争と言えるものは、なかなか展開されなかった。後半期には、関西を中心に職場の運動より市民運動を重視する傾向も強まって、運動の分散傾向、党員の意識のズレも拡大した。本部の企画や指示にたいしても、各県本部の判断で取り組んだり取り組まなかったり、という傾向がさらに目立つようになり、統一闘争どころか、矛盾し、対立する運動が見られるようになった。そして本部の求心力低下は組織力の低下となり、選挙運動でも一方に得票率三〇%台の県本部があるのに、他方には五、六%台の県本部があるのが当たり前になり、表向きは統一と団結でも、実態としては、いつ崩壊してもおかしくない状態に陥っていた。
 こうして社会党は、国民運動でも労働組合運動でも、それなりの実績をあげてはきたし、護憲・非武装中立を一貫して主張しつつ国の政策にも影響を与えてきた(憲法、九条改悪阻止、軍事費のGNP比一%以内、など)という成果もあるが、地域に根を張った独自の運動体をつくりあげるには至らなかったのである。
 
8 ソ連・東欧社会主義の崩壊で展望を失った党員の活動家は少なくなかった
 一九八九年の「ベルリンの壁」崩壊、その後、ソ連の崩壊(九一年)までの相次ぐ社会主義国の崩壊、いわゆる資本主義への回帰は、党員にとって大きなショックだった。日本社会党は独自の「日本における社会主義への道」をめざしてきたとはいえ、気持ちのなかには、資本主義の盟主アメリカに対峙する社会主義の盟主であるソ連への憧れがあり、ソ連を手本としたり、ソ連の前進に展望を見ようとする傾向があったのは否定できない。もちろんソ連を批判し中国の社会主義建設を支持する見方もあったが、多くの党員はソ連を一つのモデルとしてきたから、目の前から運動の目標が消えた感じであった。その前後に総評の解体、政治路線の異なる連合のスタートもあって、党を離れる党員、活動の第一線から去った活動家、協会を離れた同志や仲間は少なくなかったし、離れないでも名前だけの休眠状態になった仲間も少なくなかった。
 資本側はここぞとばかりに、世界的規模でマスコミを動員し、「資本主義・自由経済の勝利、社会主義経済に未来なし」の大キャンペーンを張った。東西冷戦体制の終焉によって、世界の経済、政治、軍事の体制が変化するなかで、国内にあっても、戦後続いた「自・社対決、いわゆる五五年体制」の崩壊が叫ばれる状況で、ソ連崩壊の総括をできない協会員のショックは大きかった。社会主義協会は、社会党のなかで最もソ連と親密であった(ある意味では「一辺倒」とさえ見られていた)からである。社会党のなかで影響力をもち、内部から党を支えてきた協会員の動揺、自信喪失は、社会党の活動力、組織力をますます減退させたといえる。ソ連・東欧社会主義の崩壊について、「官僚支配の体制が原因」「計画経済の限界」「生産意欲を高めようとしても、流通に問題があった」などの欠陥が指摘されている。また、残った社会主義国のなかでは、市場経済の導入がすすめられている。そしてわが国においては、社会主義をめぐる議論が、聞かれなくなった。
 すでに社会党は一九八六年の段階で「日本における社会主義への道」を放棄し、「新宣言」によって社会民主主義への道を明確にしていたのであって、本来、あまり驚くべきことではなかったのだが、社会主義の存在が心の支えであったり、運動の展望になっていた人たち、とりわけ協会員のショックはやはり大きかったと言える。
 いずれにしても、ソ連・東欧社会主義の崩壊と、総評から連合への移行が重なったことは、党員一人ひとり、あるいは集団的な怒りの行動にはならなかったが、多くの党員、活動家が、自分の進路を断たれたかのように落胆し、静かに戦線を去ったのは、予想外の姿であった。
 
9、たえず労働界の言動に左右された社会党
 社会党が「総評の政治部」であるという指摘は、全面的には認めないにしても、半分は認めざるをえない実態であった。総評の時代から、社会党に運動路線や政策の変更を求め、情勢の節々や政治闘争の重要な段階で、談話の発表や申し入れが行なわれた。
 連合の時代になって、社会党との支持協力関係はなくなったのだが、露骨な介入、圧力の発言はむしろ多くなった。九一年、山岸連合会長は「社会党改革」を提言し、その一方で都知事選では全電通労組などが自公民の候補を推薦した。九二年には連合主体の「連合の会」が参院選で候補を擁立、他方で連合会長がPKO協力法案に賛成を表明した。翌九三年には、小選挙区制に賛成を表明し、社会党にも賛同を求め、連合の主要八単産が社会党を含む政党再編による「新党」に支持協力の意を表明した。また全電通、全逓は総選挙での「選別推薦」名簿を発表した。この後、「社会党解党、新党結成」の動きは加速し、党の内部からも解党への動きが強まったのは、ご承知のとおりである。これらの言動に明らかなように、重要な政治情勢の節々には必ずといって良いほど、総評、連合幹部の発言がマスコミをにぎわし、それに連動して党内右派が同一歩調をとった。この現象は本部(東京)だけでなく、一九七〇年代中頃から、社会党県本部に対して県評(県労協)から、申し入れや抗議的な発言がなされるようになった。労組本部の強い指導で下部機関の態度が一変するような現象が、八〇年代にはさらに目立つようになった。こうした総評や大単産幹部の言動に、社会党はキチンと反論、批判をすることができず、むしろ時間をかけて容認していくような態度が党内で定着し、現場で真面目に活動する党員を失望させてきた。
 党の組織拡大が進まないなかで、最後は労組依存になり、「百万党建設」と称して、労組からの集団入党に頼ることになった。大単産は力にものを言わせて、党費軽減による集団入党や所属支部についての要求を横槍的に認めさせてきた。同時にその集団入党の数にものをいわせて県本部、総支部の役員入れ替え(協会員、気に食わない者を)の役割を担うという弊害も生じていたところが少なくない。「協会対反協会」の対立構図を煽る言動も見られ、真面目に運動する党員を失望させ、運動を内部から崩壊させていく要因をつくってしまった。
 
10、官・公労型労働運動に偏った社会党組織の不十分さが露呈
 社会党は戦後、反戦平和の運動や反合理化闘争を、戦闘的労働運動を志向する総評とともに担いながら労働者党員を増やしてきた。しかしその内訳をみると、炭労、電産、私鉄など民間労組にも党員はいたが、総評労働運動がしだいに官公労中心になってきたのに伴って、日教組、国労、全逓、全電通、自治労など、公労協、公務員労組に偏ってきたことは否めない。民間労組はたえず合理化攻撃をうけ、労資協調の労務管理の影響をうけるなかで、社会党離れ、幹部の離党がすすんだ。そして労使協調の同盟を基盤にして民社党ができた。また公労協、公務員共闘に対して民間労組の交流、懇親会などができた。そしてしだいに「親方日の丸」の公労協、公務員共闘に対して、合理化への対応に悩み、雇用不安をかかえる民間労組の違いが、政策要求や運動の組み方の違いとなって表面化するようになった。社会党に対しても、「民間企業、労働組合の厳しさや苦悩が判っていない」という批判が加えられるようになった。そうなった後にも、一部の地方では民間労組党員を数多く組織していたが、全国的にはますます官公労に偏った党員の配置になった。
 労働組合所属以外の、自営業、未組織労働者、学生、主婦などはほとんどみられなくなった。こうした党員の構成は、組織運営、議論のしかた、運動方針のたて方などに反映して、党外の人には「硬直した組織」と見られ、違和感をもたれるようになった。そのために、もともと少数であった民間労組や地域の党員の離党を促進した。
 こうした党員の構成では、労働者全体への影響力は広がりにくかったし、支持基盤の巾を狭くしてしまった。それに加えて、さきにふれたように、総評から連合への移行によって労組と党との距離が開くのとあいまって、公労協、公務員労組からの離党者続出までにも、あまり時間はかからなかった。
 
11、人材育成(発掘)や運動の継続性に乏しかった社会党の歴史
 階級闘争を運動の基調としてきた社会党と総評では、職場闘争のなかで鍛えられ、訓練されて成長した活動家が幹部候補生であった。そのうちから議員や専従者をつくるというのが、人材育成の最も一般的なパターンであった。党には中央にも、県段階にも党学校があり、総評、各単産にも幹部学校や活動家養成講座があった。六〇年以降、そういう学校、講座は増えたし、労働大学の活用も積極的に行なわれた。「『まなぶ』−社青同−社会党(協会)」という図式での活動家、人材育成が、一時期には有効にすすめられた。
 しかしこうした労働者教育、党員養成が意識的、計画的に行なわれたのは七〇年代前半までであった。七〇年代後半になると、労組内の講座には非協会の大学教授や、資本(経営側)にもつうじる話をする専門家が使われることが多くなった。内容も経営参加、提案型の政策などが中心になった。階級意識(企業意識の克服)論を否定し、労使一体論、労使運命共同体論などが幅をきかせるようになった。そういう労組内の教育は、労組党員をとおして党内にも浸透し、幅広く、柔軟な運動を求める声が多くなった。
 その背景にあるのは、労働組合に対する資本の懐柔策であり、高度経済成長の過程で資本側がそういう力もつけたのであるが、労働者側にも問題はあった。労組、政党のなかでの幹部の姿勢に対する下部組合員、党員たちの不信、不平不満があって、労働者の意識が離れたということである。

 労組の主要幹部(三役、専従者)の「永年勤務」(せいぜい10年が限度とするのが良いが、実際はそれ以上の例が多い)で、惰性、馴れ合い、もたれ合いの傾向が強くなっいた。「どんな清い水でも流れなければ必ず淀む」ように、労働者運動内部が淀んできたのである。下部からの批判を無視する言動は、労組だけでなく、党の本部、県本部幹部や各級議員にもみられた。
 また社会党では、出身労組が主導すれば議員の新旧交代はあまりもめずにできたが、そうでない場合には党を二分、三分して感情的対立となった。とくに相手が身近にいる県議、市議の場合に激しくぶつかり、育成どころか、集団離党や分裂気味の組織混乱を引き起こした。そのたびに党不信や批判層を生み出した。
 いわゆる「ダラ幹」といわれる幹部が役職を退いても、あとに「院政」を敷こうとしたり、若い活動家や指導者の芽を摘む弊害もあった。そういう目立つ悪弊でなくとも、社会主義運動、革命運動が歴史的に継続されてゆくべきものであることを忘れ、自分一代の運動としてしか認識していなかったために、「五五年体制」といわれる一時代しか運動・組織をつくりえなかった弱さが総括されなければならない。「これほどの情勢の変化は読めなかった」「人間のやることだから欠陥はある」など、理由はいろいろあげることはできる。しかし階級闘争の歴史的発展を担うという立場にたてば、答えは明らかであろう。
 
12、社会党の解体に協会は無縁ではなかったか
 日本社会党は一九九六年一月、党名を社会民主党と変えた。その直前に新社会党が結成され、その年の総選挙を前にした九月の民主党結成に多くの議員と支持労組幹部が参加した。八〇年代末の総評解体・連合誕生から、社会党の混迷、反自民連立政権、村山自・さ・社政権に続く党解体と、約一〇年の経過に「協会員はどうだったか」を触れないわけにはゆかない。日本社会党を強化して日本における平和革命の展望を切り開こうとし、その主体的条件を総評運動の階級的強化に求めてきた社会主義協会は、社会党、総評のなかに「『まなぶ』−社青同―協会」の筋金を入れようとしてきたのであるが、社会党、総評の衰退とも表裏一体の関係にある。
 社会主義協会は一九六七年六月の「太田派」との分裂という痛手を克服し、同年一一月の再建大会後の数年間に、分裂前をはるかに上回る力量をもつ組織になった。国鉄反マル生闘争や国民春闘の盛り上がりなど、労働運動の高揚という情勢にもよったが、向坂代表を中心とする理論的指導の力、そこから提起される問題提起の説得力が、その最大の要因であった。社会党は「社会新報」を中心とする党建設がすすみ、組織政党としての体制をつくりはじめたが、その前進をリードする総支部の専従者や執行部を担う活動家の多くは協会員とその支持者であった。
 そのための多数派形成や指導部確立に至る過程で、既存の指導部との確執・対立は激しく展開され、資本の側、あるいは党内右派(江田派)、労組幹部の間に危機感が高まった。しだいに反協会キャンペーン、あるいは口コミの批判が強められた。協会員の議員、及び友好的議員を中心に、中央段階では対立緩和策として、中間派、良識派とみられる人々と連携しながら、多数派形成に向けた「三月会」の旗揚げなども試みられた。
 しかし労資協調の労働組合を基盤にもつ反協会陣営の、危機感に満ちた包囲網は、そういう対応でゆるむことはなかった。協会員はあぶりだされ、労働組合との対立を利用して孤立させられ、指導部や機関からの排除がはかられた。七五年の千葉県本部の分裂以降、様々に反協会キャンペーンが社会党、総評で展開され、そのピークとして七七年の「協会規制」に至った。七八年には、それでも崩れない福島県本部への分裂攻勢も行なわれた。

 こうした攻勢のなかで、関西や東京など、都市部では協会の影響力、『まなぶ』、社青同などの活動家の活力は抑えられ、機関から排除された。とくに民間の労組のなかでは、「点」すらもまったく少なくなった。労資一体の労組のなかでは、社会主義協会は悪者、生産阻害者の代名詞となった。その孤立化策は、党の機関にも徹底された。
 こうした状況で協会内では、政治運動指導部の不統一、幾多の理論的・実践的不協和音(福田論文、三池闘争総括、社会党への対応、反合理化闘争の戦術、「新宣言」への対応、等々をめぐって)も加わって、結束が乱れていた。全体として「協会規制受け入れ」「『テーゼ』の若干の修正」「運動体でなく理論研究集団に」などの大枠では一致したものの、個々の協会員の受けとめ方はまちまちで、したがって攻撃への抵抗、反発もまちまちであった。その特徴は、@地方の多くは現状維持に努め、多数派形成に努力する(北海道、東北、北信越や中国、四国、九州に多い傾向)、A本部の妥協を「弱い(日和見主義的)部分がいたから」と見る(関東、関西に多い傾向)、B協会のやり過ぎとみなす立場で、脱会、ないし「距離をおく」仲間、C協会の指導部個々人の指導性、個性に対する感情的対立で脱会にいたる会員、D協会には距離をおくが、『まなぶ』、社青同、あるいは党、労組の運動に専念する会員、などに大別された。そしてまた、党、労組の幹部を担う同志たちと、担わない同志たちとの意見の違いや対立も、しだいに激しくなり、会議や学習会への意識的欠席、開催延期なども多くなった。総じて、分散傾向と内部矛盾、内部対立が拡大した。
 加えて九〇年前後の総評解体、ソ連崩壊と日本社会党のいっそうの右傾化かあり、協会では指導層の高齢化も重なって、社会党の変節・弱体化への対応はますます弱くなった。協会員個々人の努力はあったにしても、全体として力をだせる状況ではなく、むしろ無気力さを露呈する姿であった。その姿は、多くの仲間の活力をより低下させてしまった。
 労大運動の影響力低下は、七〇年代終盤からみられたが、労大・まなぶ友の会内部の対立が激化し、社青同にもその影響が及んで、外に向かうエネルギーが急速に弱まった。それは党員をも失望させ、協会の指導性に対する不満も徐々に積った。それは、労働者運動の停滞、担い手の無気力化を、内側から促進させた形になった。

 「協会の指導性」といっても、運動体でないだけに、具体的な対応は難しい。しかし、各地方、産別のなかで、圧倒的な資本の力に囲まれて、妥協を繰り返しながら組織を守っている仲間だちから見れば、「中央は何をやっているのか」という気持ちは当然であろう。かつては思想的影響力を誇った協会だが、思想的混迷から発する内部矛盾によって影響力を失い、運動体である党や労組に方向性を示し、展望を与えることができなかった。このことに、「誰のせいか」などと言わずに、協会全体の思想的(運動論、組織論)指導力の弱さの結果と自己批判し、学習と実践の総括の繰り返しをつうじて労働者運動建直しの道を切り開かなければならない。そしてその道のりは厳しく、多少長くなるかもしれないが、歴史をつくる闘いとしての階級闘争であることをあらためて認識し、若い世代への継続性を意識しながら、運動論の原点である学習と仲間づくりを開始することが、われわれ社会主義者の当面する課題である。

 
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