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                   社会党はなぜ解体を余儀なくされたか
                                                                        大隅保光
 
*日本社会党解体の原因を社会主義協会の立場から分析した論文。筆者の大隅保光氏は、日本社会党福島県本部書記長などを務めた活動家。出典は社会主義協会創立50周年記念出版委員会編『21世紀の労働者運動 求められる社会・運動の改革』(えるむ書房 二〇〇一年八月)。転載にあたって大隅保光氏の同意を得た。長文のため二ページに分けて掲載。
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はじめに
1.自社対決時代を築いた日本社会党
2.日本社会党は政党としての体をなしていたか
3.党員は党に何を求めていたか
4.「不思議な党」としての社会党
5.社会党の五〇年をどう見るか
6.日本社会党は独自の調査、分析で情勢に対応できなかった
7.バラバラな党建設で独自の全国的運動をつくれなかった
8.ソ連・東欧社会主義の崩壊で展望を失った党員の活動家は少なくなかった
9.たえず労働界の言動に左右された社会党
10.官・公労型労働運動に偏った社会党組織の不十分さが露呈
11.人材育成(発掘)や運動の継続性に乏しかった社会党の歴史
12.社会党の解体に協会は無縁ではなかったか
 
はじめに
   第二次大戦後の日本の労働者運動の主軸であった社会党・総評ブロックのうち、総評は八〇年代の労働組合運動再編成で連合に合流し、日本社会党は数年にわたる党再建・「解党的出直し」論議の末に、九六年に三つに分裂した。そのような結果に至るにはそれなりの原因があるのであり、今後の労働者政党運動を担うためには、その検討は欠かせない。読者の皆様が求めているのは、いうまでもなく労働者政党運動の現在、及び未来への提言、問題提起であるだろうが、それを述べる前に、若干、社会党がなぜ解体を余儀なくされたのかを論じて、その教訓をこれからの運動に生かしたい。
い 以下に述べることは、解体の原因をさぐるために、運動のなかで生じた欠陥の摘出が主要な内容になっている。読んだ方のなかには、「もっと積極面を」と言いたい人も多いであろう。実際、日本社会党は野党第一党として、日本の政治のなかで大きな役割を果たしてきた。政権の座には、ごく短期間しかいられなかったが、平和と民主主義、勤労国民の権利・人権と生活向上、福祉と環境保護、等々の多面的な分野で、積極的な役割を果たしてきた。また社会主義協会が、そのために大きな貢献をしたことを、われわれは誇りをもって語ることができる。
 その積極面についての研究、討論も、もちろん大事だしそれも行なっているが、ここでは2〜12節に、思い切って弱点、問題点を列挙した。別の角度からみれば、そういう弱点を克服すれば、第二章以降に述べている分析を生かして、労働者政党の再建は十分に可能であると言うこともできる。ぜひ、そう読んでもらいたい。
 
I、自社対決時代を築いた日本社会党
 日本社会党は終戦の年、一九四五年一二月三日に、自由党、進歩党、協同党などの保守政党に対峙する形で結成された。社会党は一貫して、日本帝国主義のアジアへの侵略戦争に動員され、敗戦後の混乱と食糧難のなかで身も心も疲れ切った勤労国民の立場にたって、反戦平和、民主化、生活防衛のために闘った。片山(当時委員長)内閣の短期崩壊という、貴重であるとともに手痛い失敗の経験もあり、片面講和・日米安保をめぐる組織をかけた大論争も体験した。一九六〇年には「安保・三池」の大闘争の先頭にたった。こうした数々の闘争、その過程での論争をつうじて社会党は、日本の政治における労働者側の代表としての地位を確立した。
 とくに社会党の力量が高まったのは、総評との協力関係が強固になってからである。総評白身は、一九五五年から始まった春闘をつうじて、労働組合運動の主軸として定着した。この闘いは、戦後の混乱期を過ぎて復活をとげ、力を強めはじめた資本側に対抗して、生活向上、労働条件改善に成果をあげるものであった。総評労働者の賃金引き上げは、他の労働者にも波及したし、その行動力は地域の諸運動をも支えた。この総評と結びつくことによって社会党は、自らの組織が弱体であるにもかかわらず、共産党との勢力争いで優位に立つことができた。

 総評の結成は、戦後の労働組合運動勃興期に、極左的指導と組織引き回しで批判をうけていた共産党のフラクション活動に対抗した、民主化同盟(民同)の左派が中軸になって
リードしたものであった。この民同左派の勢力は、後には総評、及び産業別組織の社会党員協議会となり、各労組のなかで影響力を広げた。
 社会党は総評の組織動員に支えられながら、反安保、軍事基地撤去、憲法改悪反対、軍備増強反対の闘いをつうじて自民党との対決を貫いた。と同時に、ソ連、中国を中心とする世界の社会主義との連帯を強め、思想的にも社会民主主義色を薄めて社会主義色が表面を覆うようになった。一九六四年には、科学的社会主義の理論で書かれた「日本における社会主義への道」を決定した。以後、左右の確執を伴いながらも社会主義政党への脱皮を模索した。アメリカを中心とする資本主義側(西側)の一員としての日本の立場を代弁する自民党に対して、ソ連を中心とする社会主義側(東側)とつながる力としての社会党の対決の構図が、自社対決時代として五〇年代から七〇年代前半まで続いた。
 社会党と総評は、軍備増強と憲法改悪の阻止、民主主義擁護、勤労国民の生活・福祉の向上、革新自治体の拡大による地方分権・環境保護政策の推進、などに大きな役割を果たしてきた。社会党は片山政権の挫折の後、長い期間、自らの力による政権の実現はできなかったが、戦後史のなかで、誇るに足る闘いを担ってきたと言うことができる。
 
2、日本社会党は政党としての体をなしていたか
 政党とは何か、世界各国の党はそれぞれに特徴をもっているので、一概には言えない。しかし共通するのは、現代の議会制民主主義においては、議員を中心とする政治家が、国民(有権者)を代表し、その要求を実現するという信頼関係を保ちつつ、その最も強力な手段として政権の獲得をめざすということである。
 日本の憲法には政党に関する条項はないが、政党は議会にかかっている政策・法案だけでなく、憲法をも変える力をもつ可能性もある政治団体である。したがって当然、入党する者は、その党の政治目的、それを実現する手段(戦略、戦術や政策)について一定の知識があり、賛同していることが前提になっている。
 日本社会党を創立した先人たちには、そうした明確な知識、意識があったと思うが、少なくとも私たちの周りにいた党員や先輩たちには、そういうものはなかった。むしろ入党してから多くの疑問や失望感を抱き、党、及び個々の党員との感情的対立もあり、不信感をもって離党する者が多かった。その離党者は必ずといってもよいくらい、反社会党、反党員の態度をとるにいたっていた。こういう事態は、わずか五〇年で解党的分裂を余儀なくされたことと、無縁ではないと思う。

 日本社会党は、戦前の支配秩序が敗戦で崩れ、民主主義と反戦平和の思想がにわかに広がった時代、労働組合の闘いも激しいのが当たり前で、「昔陸軍、今総評」という言葉がマスコミでも使われたような時代に、多くの党員を組織した。当時、労働組合運動が「民主主義の旗」の旗手とされていたので、労働条件向上と権利拡大の行動をつうじて、民主主義の担い手としての意識は高揚した。その意識の高揚のなかで育った活動家、組合幹部が入党し(三〜五万人)、初期の社会党を支えたのは間違いない事実である。しかし社会党の目的について明確な知識があったわけではく、労働組合運動で得た意識高揚の勢いで入党しただけに、後になってみれば「この人が……」という先輩も、党籍名簿にめずらしくなかった。社会党に限らず、戦後の日本では様々な面で、そのような粗製濫造があったのはやむをえない事態でもあった。そうした弱さをもちつつ混乱の時代を駆け抜けて、戦後の民主主義はすすみ、労働組合が経験を積み、社会党も野党第一党としての力をつけたのであった。ただ、党員の党の本来の使命に関する知識の不足は、課題として残されたままであった。
 
、党員は党に何を求めていたのか
 社会党を構成していた党員の職種は幅広く、イデオロギー的にも、一応は社会主義であったが、マルクス・レーニン主義からキリスト教社会主義まで含めて多種多様といってよく、党員は様々な思いを込めて党の運動に入ってきた。労働組合からの入党者は、全電力、全国金属、鉄鋼労連、炭労、国労、日教組、全逓、全電通、全日自労、自治労などが多く、全日農をつうじた農民の入党も少なくなかった。当時の労働組合は綱領や基本方針において、資本主義との対決、社会主義の実現による労働者の解放、などを旗印にしていた(労組の綱領には、今でもその言葉が残っていることが多い)から、その幹部の社会党への集団入党にはあまり抵抗感はなかったようである。
 とくに労働者党員が増えたのは、民主化同盟の運動が、共産党に代わって労働運動の主導権を奪ってからである。反日共意識の強い民主化同盟が推進力となって総評をつくり、その中心メンバーが党にも入って、総評と社会党との二人三脚的労働者運動をつくったのだから、理論は明確ではなかった。しかし理論的ではないが、「社会主義の実現」への素朴な思いは強かった。だから後に、年金制度が発足するときに、「(社会主義になれば全国民が福祉を受けられるのだから)掛け金制の国民年金に反対」で未加入、という党員も少なくなかった。「日本における社会主義への道」の内容は優れていたが、これには、あまり厳密な討論をせずに賛成、という傾向もあった。そういう弱さをはらみながら、社会主義的意識がしだいに定着してきたのであった。

 もちろんこうした左派的潮流(主流)の動きに反対する党員も多かった。構造改革論はもともとは左派の本部書記(江田氏も左派の出身である)と共産党員が一緒に研究会をつくって、それがだんだん広がったので、最初は「左派の理論」として登場し、言葉使いも勇ましかった。しかし徐々に、左派の「なんでも反対論」に対置するのに都合の良い理論だと受けとめられ、現実主義的傾向の強い労組幹部や議員のなかに支持者をみつけていった。そして構造改革論争は、人事の争いとからんで、しだいに激しくなった。西尾氏、江田氏などに代表される右派と、社会主義理論で固まりつつある左派との党内抗争は、たえずマスコミの餌食にされ、批判の対象となって、社会党からの国民の離反に利用された。
 そういう党内論争にも参加しながら、また労働大学の講座や『まなぶ』などをつうじたり、社青同内の論争で主導権をとり、執行部の中枢を協会員がしめるようになってからは古典の学習をテコにして、社会主義協会の影響力がひろまった。急速な拡大であったから、理論と実践の両面で不十分さはあったが、その活動家層の力は「社会党・総評ブロック」といわれる運動体のなかで、それまでの力のバランスをどんどん崩していた。したがって、反発もしだいに強くなった。
 協会系の活動家、指導者の増大に対する危機感は、労働者運動内部だけでなく、資本の側にも、当然に増大した。反協会、反合理化闘争否定、社会主義否定の宣伝が、マスコミをつうじて強められた。とくに七〇年代後半の、オイルショックを経て企業の減量合理化が一斉に展開される情勢下では、資本の攻勢が激しかった。「日本丸を救え」と叫びつつ、技術革新のテンポを早めて高度成長を持続させようという資本のあがきは、結局は失敗に終るのだが、当時、民間企業の労資を巻き込んだ太い流れをつくりだしたことは事実である。日本の労働者運動は、その流れに逆らえず、後退を重ねた。
 
4、「不思議な党」としての社会党
 日本社会党が、「不思議な党」であることは、マスコミや、学者、評論家の口からはよく聞かれた。「五万の党員で」一〇OO万票集める」「マルクス・レーニン主義・社会主義を主張するが党名は社会民主主義(ローマ字の略記号は、当時も「SDP」だった)」「世界に類のない万年野党」などがその理由だが、最も大きかったのは、最初のものだろう。
 集票でいえば、自民党は政治権力や行政をつうじた第一次産業(農業)、第二次産業(中小の製造業)への補助金をつかって基盤をつくり、党費立て替えで党員を確保しながら、最も強力な集票力をつくってきた。行政の縦割り支配力を利用して、農協、土建業、補助金・公共事業予算をあてにする企業などを集票マシーンとして動かしていた。
 社会党もかつては「不思議な党」といわれながら、それに似た集票力をもっていた。たとえば一九五五〜七五年頃までは、日教組では一組合員平均八・五票、全逓は一〇票を越えるといわれていた。教職員は恩師であるという強みがあり、全逓は郵便配達、保険、貯金の集金や相談をつうじて住民との接点を多くもち、強い集票力をもっていた。また「労組選対」の動員力に依拠した「ローラー作戦(全戸配布、対話・点検活動)」が選挙の中盤から終盤に展開され、各県ごとに数万人規模の統一行動かおこなわれた。こうした行動によって「五万の党員で1000万票」は可能となったのであった。この頃には、労組幹部は「一夜で一万票や、二万票は逆転できる」と豪語していた。
 自民党政府は、教師聖職論をとなえ、公務員の選挙活動禁止規定を利用するなどして、攻撃を強めた。活動力は徐々に弱くなった。労働組合運動における活動力の後退と動員力の激減、社会党内の対立’抗争、万年野党批判などがあって、八〇年代には、そうした集票力は過去の夢となった。

 自民党や資本側に対抗する集票力を維持してきた社会党・総評は、選挙時ばかりでなく日常の地域運動でも、一定の実績をあげた。総評−県評1地方労1地区労として組織された労働組合の動員力、活動力に支えられて、課題別に共闘会議が組織され運動が展開された。六〇年安保闘争、六五年日韓条約反対闘争、七〇年安保闘争などの全国的な政治闘争を中心に、地域の諸課題も取り上げ、春闘、秋闘ともむすびついて各地で集会、デモなどが行なわれ、地域住民への影響力も広がった。
 しかしそういう運動も実態としては、人集めも金の用意も、舞台回しもできているところに、社会党の代表がでて主催者として挨拶するだけというのが、社会党の「良き時代」の全国的な共通現象であった。運動をつくるのに苦労するとか、党が自立した活動力、動員力を培うようになることは少なかった。大都市部では、労働組合の組織力が落ちるのが早かった反面、党、社青同などの活動家数が多かったので、党自体の動員力もしだいに強くなっていたが、自立できるほどに育つ前に「協会規制」以降の分断で、がたがたになってしまった。党組織に独自の力がない以上、支持労組からの動員の無い選挙や大衆運動は論外である。そして九六年の社会党三分裂以後、その支持労組の大半が民主党支持に移ってしまい、社会民主党は「一人歩き」できない党組織の厳しさ、看板は大きいのにそれをかつぐ者に欠けるという苦しさに、今直面しているのである。
 
5、社会党の五〇年をどう見るか
 日本社会党は一九九五年に結党五〇周年を祝った。戦後の日本の反戦平和と民主主義、働く者の生活と権利の確立に大きな役割を担ったのはいうまでもない。とりわけ前半の二五年は、全体に社会情勢が険しかった。生産設備も技術力も、先進国に比べるとかなり劣り、労働条件も国民の衣食住も、発展途上の状態であった。そういう情勢下では、勤労国民の反戦、生活向上と権利獲得への意識は強く、政治への関心も高く、社会党による政府・自民党への批判が、抵抗なく受け入れられた。六〇年の安保闘争には、連日、数万の労働者が国会を包囲した。浅沼書記長の右翼による刺殺に抗議して、全国六〇〇ヵ所で四〇〇万人が行動に参加した。ベトナム反戦、沖縄返還闘争でも、連日の集会、デモが行なわれた。六七年の美濃部都知事誕生以降、首都圏、関西を中心に革新首長が続々と生まれ、革新市長会が拡大した。六九年物価メーデーには三五二ヵ所にI〇〇万人が参加し、七〇年の国際反戦デーには七八五ヵ所に三七・二万人、公害メーデーには一五〇ヵ所に八二万人が結集した。こうした運動における労働組合の動員は、客観的には社会党への応援団となっていた。『社会党は総評政治部だ』という酷評もあったが、勤労国民のなかでの社会党のイメージは悪くはなく、政治への批判の受皿としての役割は果たしていた。
 当時はとくに、革新自治体への支持が強く、全国二八七ヵ所にのぼり、「地方から中央を包囲する」と称して、自・社の対決時代をつくっていた。革新自治体といっても、議会では保守が多数のところが多かったが、現行の制度では、自治体首長の権限が強いので、生活に直結する地方行政については、改善の実績を積んだし、その点で保守・自民党の中央直結・開発優先に対抗していた。革新自治体をつくるには、共産党の力もかなり大きかったことは認めなければならない。しかし、産別労組時代の「フラクションによる労働組合引き回し」のために影響力を激減させ、その後も労組のなかでは回復していないために、広がり方には限度があった。
 資本の側の切崩し工作もしだいに強化された。いうまでもなく、その初期にはアメリカの占領政策が大きく影響した。占領直後には、全般に改革・民主化を推進していたが、米ソ対立の激化とともに、しだいに反共・反動の傾向か強くなったのは、よく識られていることである。労働組合対策も同じ軌道を動いた。とくに、中国における共産党・人民解放軍の勝利(一九四九年)、朝鮮戦争の勃発(一九五〇年)を前後して、決定的に転換した。講和条約(一九五一年)をへて、日本独占資本の労働運動への反撃も強化された。総評が彼らの期待どうりにならないとみると、分裂組織として全労が育てられた。一九五五年には生産性本部が発足するとともに、それに賛同する労組の結集がすすんだ。全労は社会党の西尾派と密接に連携しており、五九年における党分裂の後押しをした。六四年には公明党が結成され、その後徐々に議席を増やしていった。この頃から、自、社の二者択一時代の終わりが始まったと言うべきだろう。
 その後、経済の高度成長を経るなかで、国民生活の向上、ある程度の安定化もあり、また国民の価値観、生活上のニーズの多様化もあって、政治に求めるものも一様ではなくなった。保守と革新に加えて中道路線などが注目されるようになった。労働組合の政党支持も社会党一辺倒、あるいは社共共闘支持から公明、自民、無所属候補も含めた様々な候補の推薦や選挙協力など、種々の組合せが出現した。とくに太平洋ベルト地帯においては、労資強調の労組の影響力が強く、社会党の弱体化、右傾化か促進された。われわれもそういう事態に対処する有効な手立てをたてられなかった。

 そういう後退傾向が、後半の二五年間の社会党運動にとって、陰の部分を大きくした。階級闘争路線批判、社会主義批判にいくら反論しても、結果は思わしくならなかった。「社会主義への道」の棚上げも、当時の執行部としては、情勢の変化に対応して体質改善しようという模索の一環であった。だがそうした試みがあっても、選挙の度に敗北の弁、反省の弁を語りつつ委員長の辞任(交代)を繰り返すようになった。選挙での議席の維持、多少の増加をできるのは、敵失に助けられるとき、という状態に陥った。
 片山内閣(一九四七年)以来、社会党は政権とは無縁であった。社会主義革命を追求する者は、それで無力感にとらわれるということはなかったが、資本主義の枠内での改良政権をめざす者にとっては、二五年というのは、長過ぎる期間であった。社会党は「鼠を獲らない猫」といわれ、「長期低落傾向」「覇気がない」と批評された。政権がとれないだけでなく、「実行力がない」とレッテルを貼られるようにもなり、議席がへればそれがさらに支持者の社会党離れに拍車をかけた。
 前半期には社会党を無条件で支持していた労働組合も、自らの弱体化(組織力が弱まると同時に、階級闘争路線の後退で闘争的でもなくなった)を克服できないまま、合理化や制度・政策の変化による皺寄せをうけたり、組合員の政治離れがすすむ度に、社会党を批判(もっと現実的に、もっと実行力をもてと)し、介入を強めるようになった。そうして労働組合が政治離れ、政党離れをするにしたがって、社会党の足腰はさらに弱まった。勤労国民との接点不足という弱さを補えないまま、マスコミの(「世論」という形をとった)攻勢にも対応できなかった。こうした様々な弱点が重なって、後半は後退が続いた。
 土井委員長のもとで、消費税に対する国民の怒りの受皿となって議席を伸ばしたことはあった。しかしそれは一過性の現象でしかなく、党勢は間もなくまた下降線をたどるようになった。九六年、社会党は五〇年余の歴史に幕を下ろし、かつては裏切り者とのレッテルを貼っていた社民主義を党是とするに至った。
 
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