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党風確立の基本的諸問題(後半)

                三 社会党を働く階級の組織の先頭にたたせること
 いまわれわれは、あらゆる働く社会層について組織ということを考えなければならぬ時代にはいっている。とくに平和革命の指導的政党として、わが社会党の任務は、何をおいても党自身の組織の強化でなければならない。
 社会党は、いうまでもなく、働くすべての階層の先頭にたって、社会主義革命の道を示し、そこに到達するための力を結集し、指導する使命をもっている。このことは、けっして国民政党という名をかぶせて、すべての社会階層の革命的なエネルギーを無差別に取扱うことを意味してはいない。社会主義革命の基本的な力は、近代的賃金労働者階級にあることはいうまでもない。この階級のなかでも、日本の基本的な独占的な大産業で搾取されており、大規模に組織されている労働者にある。それは日本経済の死命を制する力を発揮しうるからである。幸にしてその多くは総評か全労に組織されている。全労指導部の労資協調的指導方針は、いちじるしく大組合の全国的統一行動を阻害して、労働者階級全体の力を弱めているが、全労が近代的労働者の階級的組織であることにまちがいはない。
 
 われわれの革命的精力の源泉が、まず独占的大産業の労働者組織にあることを忘れてはならない。しかしそのことは、中小企業の労働組合が不用であることを、少しも意味しない。きわめて数の多い中小企業の労働者の組織を完成することも、社会主義革命の力を強化すること論をまたない。しかしこのことの達成は、独占的大産業の組合と社会党のつよい援助なしには不可能である。その意味でも、このような大産業の労働組合の強化が第一の目標でなければならない。
 農民階級の圧倒的多数は、社会主義の力となりうることもちろんであるが、土地改革後の農民の独占資本による搾取は、現物小作料によるそれほど眼にみえない。しかし、額に汗して働く成果が独占利潤の源泉の一つである事実は、しだいに農民と社会党とをむすびつける。農民はその社会主義革命の精力において、近代的労働者に次ぐものではあるが、わが国のように窮乏した小農民が多数に存在するところでは、この層の結集に成功しないで、社会主義革命を達成することはできない。中小企業中の多数である下層もまた農民とともに、社会党の支持勢力となりうる。中小企業の大なるものを社会党の支持者とすることは、例外は別として、原則的にいえば、きわめて困難である。しかし、中立的な立場に追いこむことはできる。いわゆる知識人の多くを、どのようにしてわが党の支持者にするかも、われわれの当面する問題である。
 
 独占資本によって、これらすべての社会層は搾取され、抑圧されている事実にはまちがいはない。独占資本に対抗しようとするかぎり、どの社会層も組織化される傾向を必然的にもっている。今日はどの社会層にとっても、ことの難易はあれ、組織の時代である。
 当面、どこに主力を注ぐべきであろうかということが、われわれの問題である。われわれの努力の主要方向は、近代的労働者階級、とくに大産業の労働者のなかに多数の党員を育てあげることにある。社会党の強化の原動力は、当面、独占的大産業の労働者のなかに、誠実で有能で勇敢な党員を獲得することにある。そしてそれらの党員がもっともすぐれた組合員として各大産業の組合のなかで活動することによって、労働組合と社会党との有機的な結合が生まれる。このことによって中小企業の組合員、その他未組織の労働者を獲得することができる。労農、労商共闘も、このようにして可能になる。このことは、いうまでもなく大企業の労働者と中小企業の労働者との組織いずれに当面の努力を集中するかという問題であって、その間は中小企業の労働者を放っておくということを意味するものでない。
 
 このように、社会党員獲得の努力が、どこに集中さるべきであるかは、党と社会主義運動の当面しているもっとも重大な問題である。そして、もしわれわれが総評や全労に組織されている労働者のなかに、すぐれた党員を多数に育てあげることに成功したとすれば、労働組合運動の共闘または統一のうえに、大きな転換をもたらすことすら可能になる。
 このような大きな仕事に成功しないかぎり、社会党はいぜんとして「総評にリードされる」社会党であって、総評や全労やその他の大小の組合、未組織労働者、農民その他の勤労大衆を指導する政党でなければならぬという歴史的使命の遂行などは、夢想だにすることを許されぬ。
 遠大な理想にすぎるというかもしれない。しかし、この目的を達成しないかぎり社会主義社会は実現されない。そしてこの達成はできる。それは他国の社会主義政党がやったのだから、われわれにできぬことはない。それは歴史的必然態のだから達成されないことはない。
 
  四 党運営をたたかう態勢につくりあげること
 
 労働組合のどこにわれわれの主要努力が注がれるか、という問題を理論上解決したとしても、党内にこれに応ずる態勢がととのっていなかったら、それはただ紙のうえだけの話におわる。
 われわれは、社会党の労働部を、真に全国の組合運動にたいして活動の根本的指針を示しうるものにしなければならない。われわれは、全国の組合運動の情報をキャッチするだけでなく、運動の先頭にたって光をかかげる役割を充分に果たしえなければならない。今日このような役割を果たしえない主な原因は、党そのものが弱体であることにある。党員が余りに少なく、しかも活動的党員がもっと少ないというところにある。
 
 党員、ことに活動的党員を多数に獲得するということは、わが党の当面している最大の問題である。党は、その中核に活動的分子を多く育てることによって、さらにその周囲に多数の一般党員をつくることができる。この目的を達成するためには、党はまずすぐれたオルグを育てあげなければならない。党強化の問題は、もしわれわれがすぐれたオルグを党内に多数育てることに成功したら、半ば解決されるといってよい。
 中央と地方のオルグは、いわば党の血液である。血が流れていかないからだの一部は腐敗する。中枢部が損われると人間が半身不随におちいるように、オルグ活動を掌握する者のいない党は、やはりバラバラの無力な活動しかできない。オルグはつねに中枢部の指導の下に、全国をかけめぐって、党の末端まで社会主義革命の精神と日常活動の全国的結合力とをつくりあげていく。血の通う、強靭な社会主義政党は、オルグの活動によってつくりあげられる。このようにして、全社会党が一人の人間のような機動力を発揮することもできる。
 
 党員を増加させることは、保険の勧誘とはちがう。党員は一定の程度において社会主義者でなければならない。したがってオルグは、教育者をかねていなければならない。党はまずオルグを育てる教育活動に力を注がなければならない。中央地方のオルグが高い意識をもって活動をはじめることによって、はじめて党員は徐々に堅実に増加してくるであろう。
 党員が堅実に増加してはじめて党財政も健全なものとなる。先頃の党内処分が党財政を根本的に健全化する問題を解決しはしなかったこと、人の知るとおりである。そして、この問題は、もちろん、全党が真剣に考慮すべきものである。党員の増加、党費の規則的な納入、新聞、雑誌、その他の出版活動、などによる健全な党収入増加の方法のほかには、卓抜な名案はあるまいとの点でも、オルグ活動の強化は、やはり問題解決のかなめである。党員の増加は、中央・地方のオルグ活動にまつほかなく、党費の増加は、意識の高い党員の増加によるほかないからである。幸にして、党員は徐々にではあるが堅実に増加する傾向をみせている。オルグの増加と教育と、さらにその活動とによって、この傾向に即応しなければならぬ。
 党の強化は、党書記局全体の強化によるところが大きい。党のオルグや書記はたんなる事務員やサラリーマンであってはならない。彼らはすべて党の革命性を純粋に保持する革命家でなければならない。かれらが現実に党の日常の運営を司っているのであるからである。
 
 党の正式の指導機関の在り方についても、考究すべき多くの問題がある。社会党はいわゆる議会政党ではない。議会が主要なる階級闘争の場であることはいうまでもないことであるが、議会の外にある組織された労働大衆の力を、議会活動にむすびつけることによってのみ、平和革命は可能になる。社会党のすべての機関がこのような理論によって、それぞれの任務を果たすべきである。社会党の現在の議会活動には、労働大衆のなかからいろいろの非難が加えられる。その非難のいちいちがかならずしも当っているとはいえない。日常的な議会活動が、一定の点で妥協に終わらなければならぬこともやむをえない。しかし、今日の社会党の指導に、革命政党としての自主的な理論的確信が欠けているところからくる動揺もないではない。民族独立の運動、平和運動の場面においても、同じようなことがいえる。
 これらの諸問題は、社会党に、理論と経験をもって武装した指導部組織の確立が急務であることを示している。
 
  五 学習はたたかいであることを知らなければならぬ
 
 くりかえすまでもなく社会党は社会主義革命の政党である。社会主義の研究機関ではない。社会主義的行動をやらない社会党はありえない。しかし、ただ無意味に行動するのではない。日常山と積まれている事務のすべてを社会主義実現のために集約しなければならぬ。日常の事務のなかにこのような意味を発見させるものは理論である。指導理論のない行動は、無意味な盲目的行動でしかない。それはたんなる改良主義的、日和見主義的行動となる。われわれの党の大きな欠陥の一つは理論の軽視である。どんなに有能なオルグでも、理論的確信なくしては、労働大衆を組織し、これを強化することはできない。労働大衆が「揺藍(カゴ)から墓場まで」さらされているのは支配階級の思想である。権力、教育、宣伝のいっさいの機関をあげてこの思想を注入している。さらに、日本の客観的歴史的条件を無視した社会主義思想も、労働大衆に注ぎこまれている。
 これらすべての抵抗のなかに、正しい社会主義政党の組織を拡大し、強化していくためには、われわれは、たたかいの武器、すなわち正しい理論を身につけなければならない。社会党は不断に、大規模に学習活動をつづけなければならない。学習活動は、党の日常活動のいかなる場面でもおこなわれなければならない。開始されようとしている党の行動の意味を充分に党員や組合大衆に理解させないで、強力な運動を展開することはできないからである。
 
 いま私がとくにここでわが党の強化のためにおしすすめなければならぬと信ずるのは、はじめにのべた意味のより一般的な理論の学習活動である。この理論の欠如がわが党に、議会政党、改良主義、官僚主義などの非難をもたらす事実の発生原因ともなっているからである。
 私は、第一節でのべたような理論の学習活動を、党員のすべてにおしひろめていくことをすすめたい。いま一度くりかえすと、マルクス・エンゲルスの世界観、これにもとづく世界および日本の客観的歴史的諸条件の分析、これを土台にした日本における階級対立の状態、したがってまた社会主義革命の必然性と、この革命の形態を規定する経済的、政治的、社会的な基本的諸関係(とくに戦後の日本独占資本の特殊性、アメリカへの従属関係からくる社会主義運動に与えられた特殊性)の理解である。このような学習のためには、けっしてマルクス主義的に書かれた本のみを読まなければならぬというのではない。きわめて広い読書によってでなければ、このように広範な学習を大成することはできない。
 
 しかし、今日までの歴史的経験がその正しさをたしかめたように、われわれの日本における社会主義革命活動の諸関係の学習の指針、思索の方法を教えるものは、マルクス・エンゲルスの著書を第一としなければならない。第二には、彼らの思考の方法にしたがってより具体的な条件のもとで書かれた多くの文書がある。それらのものに誤りがないというのではない。誤りがあっても、これらの古典的な先人たちが辛苦して考えた誤りは、誤りそのもののなかから学ぶところが大きい。
 私が、とくに強調したいことは、いま一度われわれは、マルクシズムの創始者に帰って考えてみる時にきているのではないか、ということである。彼らの生きた時代はとっくに過ぎている。しかし、彼らがその深い体験とさんたんたる思索で築きあげた理論は、今日もなおわれわれにとって尽きない智慧の泉である。われわれの学習活動が、社会主義の教科書からはじまることを少なくも悪いとは思わない。ただ、教科書だけで学習が終わってはならない、ことを強調したいのである。
 
 学習活動は、いろいろのかたちでおこなわるべきものである。党学校の強化、討論集会などの定期的な学習会から、党員が自由に少数の同志でおこなう研究会にいたるまで、つねに党員を学習の網の目にとらえているほどにおこなわるべきであろう。しかも、学習活動にとって重要なことは、これを継続するということである。学習活動、ことに小グループの研究会は、はじめ相当の人数があってもかならず日がたつにしたがって減少する。減少してもかまわないから、つづけることが大事である。二人になってもつづけたがよい。つづけていると、まただんだん増えてくる。要はつづけることである。
 適当な講師がいないことがなげかれる。しかし、社会主義者は独学でやることを決意した方がよい。おたがいだけではドングリの背くらべでつまらんというが、やっているうち、みんな勉強にはげみがついてきて、おたがいが向上する。講師に適当な人さえあれば、いた方がいいにきまっているが、おたがいだけでもやれば、かならずやっただけの効果はあがる。やらないことと比較したら、その効果は、はかりしれない。私どもも、はじめはドングリの背くらべでやった。当時大学には、マルクスの思想や社会主義を教えてもれる先生はいなかった。いろいろな人の本を読んだり、おたがいで研究会をやったりして勉強するほかなかった。
 学習活動は、すぐにもやることである。おたがいでグループをつくればよい。やりはじめたらつづけることが大事である。テキストなどについては、社会主義協会に問合わせるといい。
 
  六 むすび
 
 いまわれわれの党にはつよい右翼化の傾向がある。社会党合同によって生じたものは、かならずしも党の強化ではなかった。ことに党運営が党内の右翼によっていちじるしく動かされる結果、多数を占める党内の左翼の行動は制肘(セイチュウ)されている。理論的一貫性をもった党内左翼の行動が、右翼とのうやむやな妥協によってはなはだしくぼやかされる結果、党内のかつての活動分子のなかに、煩悶、倦怠、意気銷沈という消極的な傾向を生みつつある。社会主義政党らしい活動がおこなわれているところは、多くは党内左翼が圧倒的ななかで主動力をもっているところである。そうでないところでは、左も右も党事情の煩雑さにすくんでしまって、行動は沈滞している。そのうえに支配階級はすべての方法をもって、ことにジャーナリズムをつうじて、「大人になれ」という社会党右翼化の努力をつづけているが、これは意識のおくれた党員に影響している。かの「国民政党論」や「二大政党論」という社会党日和見主義化も、ある程度の効果をあらわして、左翼党員の活動の意欲を弱めている。
 このようにして、党内活動分子のなかから、「社会党は統一しなければよかった」という歎声すらときどききこえるほどになっている。これは、われわれの党にとってきわめて危険な状態である。いまさら、「統一」を歎きかなしむことほどむだなことはない。しかし、党内にこの沈滞した消極的精神がみなぎることは、革命政党の死を意味する。
 
 社会党の沈滞をなげくかわりに、われわれのなすべきことは、党内右翼化の傾向に抵抗して、社会主義革命の精神を育てあげることに最善の努力を払うことである。
 ただちにはじめなければならぬことは、党内の中堅的な若い活動分子のあいだに、われわれの革命理論の学習をおしすすめることである。具体的にいえば、さきにのべたようにマルクシズムの世界観の研究、マルクシズムの方法による世界と日本の客観的歴史的諸条件の分析、したがって、また世界へとくに日本における階級対立の状態、これにもとづく社会主義革命の必然性、ことに日本における社会主義革命の形態を規定する経済的、政治的、社会的な基本関係、とくに戦後における日本の独占資本の特殊性、アメリカにたいする従属関係からくる社会主義運動に与えられる特殊性、などの理解を目指す学習である。さらに、重要なことは、この革命理論の研究が日常の実践活動のなかに生きる工夫である。したがってまた、これらの研究が党運営のすみずみまで浸透するためのたゆまざる努力である。
 
 このことによって、われわれは階級政党としての活動の信念をうることができる。世界および日本における労働者階級の精神的、組織的発展は、きわめて急速であるということはできないが、ソ連や中国における社会的、文化的発展と、ことにソ連共産党第二○回大会以後の社会主義諸国、人民民主主義諸国におこった自由なる空気、アジア・アフリカ諸民族間にみなぎる独立の運動などに刺激されて、徐々にではあるが、堅実に疑うことのできない事実としてあらわれている。ただ、わが国では、社会党は、労働者階級の精神的高揚の先頭にたって、これを組織的な力に育てる指導力に不足している。総評を指導しえず、総評に「けつをひっぱたかれる」実情は、このことを意味する。日本における今日の労働者階級の意識の高まりに、社会党がおくれていることを意味する。
 ここにも、わが党の革命理論の徹底的学習の必要が痛感されている。この学習活動は、党の中枢から地方の末端の党員にいたるまで及ばなければならない。そしてただちにはじめられなければならないし、またはじめることができる。党の機関として定期的におこなうだけでなく、学校、研究会のような常置のものによってもすすめられなければならない。このような学習活動は、たんに党の公式の機関や党の指令によっておこなわれるだけでなく、党員各自の自発的な研究会、学習会として遂行さるべきである。むしろこのことが大事である。党の活動分子はただちに自分のまわりにある党員とともに、学習活動をはじめるがよい。党のすべての政策、党の現在の綱領、旧左派社会党の綱領、等々、学習活動の資料に不足はしない。講師のないところでは、講師なしではじめるがよい。かならず成果はある。ただ、つづけることが大事である。あらゆる困難をこえてつづけるがよい。学習活動の成否はつづけるかどうかにかかっている。その際つねに忘れることのできないことは、われわれの政党が社会主義革命の政党であり、階級政党であるということである。そしてそのことの理解のために、われわれの座右にあって、不断の指針となるものは、マルクシズムの古典的な著作であり、マルクシズムの理論と実践の発展の歴史である。
 
 このような学習活動は、ただ学習活動にとどまらない。それからかならずわが党強化のための活動力と具体的な方策とが生まれる。現在の党綱領のあいまいな機械的妥協、その改良主義的性格などにたいする批判も、われわれの日常の実践とむすびついておこなわれる学習活動によってはじめて党員の腹におさまり、からだについたものとなる。党綱領の変更も、革命理論がこのように党員の実践活動となって生き、党員の身についたものとなることによって、はじめて可能となる。ただ革命的な言葉への変更ではなんの役にもたたない。また、一部の修正というようなものは、党の実情では、機械的な妥協の産物である現綱領をますますあいまいにするだけにおわるであろう。綱領が真に実践を貫いた革命的な性格をえるためには、それは党員の高い意識と実践力の基礎のうえに築かれなければならない。現綱領は修正さるべきものではなく、変更さるべきものである。
 われわれは、党強化のために、あらゆる工夫をこらしつつある。そのためには、中央地方に、あるいは公式に、あるいは党員の自発的な集まりのなかに、党強化のための計画と運動がつよくおこらなければならぬ。そしてそのためには理論闘争がつよくおこなわれなければならない。理論闘争のつよくおこなわれない党は、沈滞し、死滅する。党強化のための集まりを党のすべての場所でおこさなければならぬ。そのために、党員のあるところいかなる場所でも、学習活動をあらゆる方法で振興しなければならない。これが、党強化のいっさいの方策の土台である。そして強化された党が、はじめてゆるぎない革命的綱領をつくりあげることができる。
 
(注1)遺憾ながらわれわれはまだ世界大戦が絶対におこらないという確信をもつまでにいっていない。局部戦論というきわめて危険な思想もアメリカにあるといわれる。
(注2)ここにいう社会主義革命政府とは左社の綱領にいう「過渡的段階の政府」のことではない。
(注3)『社会主義』一九五七年五月号所載、拙稿「窮乏化論について」を参照されたい。
 
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