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党風確立の基本的諸問題

 
  *初出は『社会主義』1958年1月号。ここでの底本は『日本革命と社会党』(社会主義協会 1972)。 2ページに分けて掲載。   
                                                        
                                 向坂逸郎
一 理論と実践を統一すること
 
 われわれは山のように積まれた日常の事務のなかで活動している。革命運動が大衆のなかに根を据えるほど、事務は増加する。そしてこれらの事務を精確に処理することなくして、革命運動の進展はない。
 三人か五人の運動ならば、おたがいの連絡はかんたんにつけられる。数十万の党員をもち、それらの党員が数百数千の支部や班にわかれ、しかも、これらの党員があらゆる職場で活動しており、無数の問題を提起してくるような大運動に統一を与え、これを社会的変革の力に結集するためには、経験と理論とによって強力に武装した中央指導部、すなわち、運動の中枢なくしては、何事もなしえない。さらに、運動の末端と中枢とのあいだに緊密な連絡なくしては不可能である。末端でキャッチしたことが、ただちに中枢に報ぜられ、中枢の指令が時を移さず末端に伝わって、事態に適応した活動が展開されなければならない。
 これらのことは緊密な連絡がなかったらできないことである。無産階級の運動は、いうまでもなく今日では連絡ということなくしてはおこなわれえない。連絡のない運動はバラバラである。正確に意図を伝えない文書や口頭の連絡は、連絡ではない。意図そのものがどんなに高遠で的確な行動の指針であっても、正確に伝えられなかったら、的確な行動にはならない。われわれの党の的確な行動が、戦略や戦術の目標に強力に集中しないで、周到にいくえにも防備された敵陣を、どうして突破し、占領することができるか。
 
 だから、革命家は、今日の組織された大軍団をなす大衆運動のなかにあっては、精確無比の事務家でなければならない。必要な事項を正確に文書にあるいは口頭に表現することのできない革命家は革命家ではない。意図を正確に示す電報のうてないこと、電話のかけられないことは、革命家として重大な欠陥である。不正確な連絡は連絡しないことと同じであるからである。あるばあいにはもっと悪い。まちがった連絡によって運動の敗退をすらもたらすからである。電話のかけ方、これはきわめてささいな、つまらん事務であると思われている。しかし、これは全運動の血管の役目を担っている。事件にまにあわない連絡は、汽車のでた後にホームに着いた見送り人のようなもので、これほどまのぬけた行動はない。
 われわれは、いついかなるところででも、「革命」に直面しているわけではない。世界の政治経済の情勢は、一般的危機の状態にあるといってよい。しかし、現にいまわれわれは、日本で直接的に特殊的に革命的な情勢に直面しているのではない。つねに、革命の前夜にあるわけではない。われわれの前にいま直接に存在しているものは、山積している日常の事務である。それは、客観的条件と主体的条件との変動にともなって、つねに動いている日常の活動の処理である。
 
 資本主義の根本的な矛盾は、つねにそのままの姿であらわれるとはかぎらず、無数で多様な日常のたたかいとなってあらわれる。したがってわれわれは、この日常の対立闘争の先頭にたって誠実に勇敢にたたかわないでは、働く大衆に教えこまれている資本主義の本質についての安易で皮相な見解を啓蒙することはできない。このような活動は、つきない日常の事務をもたらす。そのような日常の事務がどんなに膨大なものであっても、われわれはこれを適当に処理するほかはない。革命への道は、羊腸のように曲りくねって長く、あるときは細くけわしく、あるときは広く平担に、この山積している事務を貫いて走っている。この道をがまんづよく歩くことを拒否する者は目的の地にたっすることはできない。
しかし、革命への道がこのように長く曲りくねっているために、われわれの隊伍のあいだに目的地を見失う者もできてくる。日常の事務のなかに埋没して、この事務そのもののほかに労働者階級の運動はないかのように思いこんでしまう者がでてくる。日常の事務が自己目的となる。ここに官僚主義や日和見主義や改良主義の土壌がある。このようにして、革命について語ることは、青くさい青年のたわごとであると考える「大人(オトナ)」が生まれてくる。「大人」にとっては、日常の「具体的政策」のみが必要であって、革命の理論などは無用になる。この「大人」たちには、このようにして社会主義政党の根本的な存在理由は忘れ去られる。彼らは社会主義者ではなくなる。
 
 社会主義者は、きわめて困難な課題の解決を生涯の仕事として選んでいる。彼は、もっとも有能で実直な事務家であると同時に、片時も社会主義革命の目標を見失わない革命家でなければならないからである。
 日常事務のなかに埋没することなく、これを貫いて走っている革命への道を見失わないために、われわれに与えられているものは、革命の理論である。もっとはっきりいうと、マルクシズムの世界観であり、これにもとづく世界および日本の客観的歴史的諸条件の分析である。さらに、これを土台にはじめて可能になる日本における階級対立の状態の理解、社会主義革命の必然性とこの革命の形態を規定する経済的政治的社会的基本的諸関係の理解である。これらの理論の勉強は、わが社会党員の欠くべからざる任務である。
 いうまでもなく、われわれは理論をただ理論として愛好するものではない。われわれの理論は、日本資本主義の根本的な変革の必然を示し、革命の形態(平和革命)をもあきらかにした。しかし、このような根本的な変革が実現されるためには、労働者階級を指導するわが党の主体的な条件がととのうということだけではたりない。客観的歴史的諸条件が、たんに一般的な危機状態にあるというだけでなく、特殊的な直接的な危機、たとえば戦争(注1)、恐慌、激烈なインフレーション、大量の失業、世界情勢の変化等々というような経済的政治的激変によって、支配階級自体が経済・政治の支配力にたいして自信を喪失するという客観的諸条件も存在しなければならない。
 
 したがって、現在われわれは、このような意味で条件のととのった社会主義革命の前夜にあるのではない。それ故にまたわれわれは、直接的に革命的な情勢に直面しているばあいのスローガンである「社会主義革命政府の樹立へ!」(注2)というスローガンでたたかっているわけではない。われわれの現在のたたかいは労働者階級の主体的条件を一定の程度に確立することにある。われわれの前に現にあるものは、資本主義の矛盾によって生じた日常闘争の大海である。われわれがこの大海に飛びこんで必死のたたかいを展開することによって、労働者階級の日常の利害が守られる。しかし、労働者階級が獲取した有利な地位は、再び支配階級の反攻によって危くされる。さらにわれわれは、このための防戦をやらなければならなくなる。機をみてさらに進撃しなければならなくなる。このようなたたかいのあいだに、労働者階級はしだいに資本主義の本質と限界とを学び、徐々に社会主義者になる。このようにして、労働者階級の革命的精力は強化され、社会主義政党は成長する。
 理論は、一般化された歴史的経験の集積である。歴史的経験そのものではない。経験のなかにふくまれている本質的な一般的な部分を体系としたものである。したがって、理論は、多かれ少なかれ「純粋」であり、「抽象的」である。ところが、われわれが直接にぶつかるものは、なまの経験である。われわれは、つねにこのなまの経験のなかで活動している。日常闘争とはそういうものである。この直接的で複雑な、なまの経験のなかにかならずある本質的なもの、社会主義の意識につながるものをつかみだし、これを労働者階級の成長に資することができるのは、理論の力である。
 
 日常闘争は、事務をつうじて展開されるほかない。ここにわれわれのいう事務とは、日常闘争の具体的な遂行の脈絡にほかならない。理論の武器をもたない者は、つきることのない日常闘争の山のなかに埋没してしまう。なぜかというに、彼は、日常闘争のなかにある社会主義への発展のエネルギーを発見し、これを成長させ、展開させることを知らないからである。べつの言葉でいえば、彼は日常闘争のなかにふくまれている歴史的意味を知らないからである。
 社会主義政党が、自ら日常の事務のみに埋没しおわるとき、その政党は、官僚主義の組織となり、改良主義の政党と化してしまう。このようにして、それは、労働者階級から遊離した「議会政党」となりおわる。
 わが社会党員は、理論の「武器」をもって、充分に武装することを忘れてはならない。このことによってはじめて、社会党員は、日常の事務のなかに、革命の精神を見出すことができる。理論と実践との統一ということも、要するに、個々の実践活動のなかにより一般的な本質的なものを発見し、これをさらにより高い実践にむすびつけていくことにほかならない。たとえばある工場における労働者の闘争のなかには、その工場労働者のみの利害に関して、他の工場、したがってまたその全産業の労働者の利害と相反するような利己的な要求があるとしても、その工場労働者がその工場の資本家にたいしてたたかう要求と精力のなかには、全産業労働者の、さらには全労働者階級の要求に集約され、全労働者階級の精力に集中するものをもふくんでいる。これを区別して、後者の成長に力をつくすことは、われわれの理論を身につけた者にしてはじめて可能である。
 
 ある工場の労働者だけの利害、または労働者の一時的の利害だけに関する要求がなされる。しかし、局部的、一時的にせよ、労働者が個々の資本家や資本家階級にたいして要求をかかげてたちあがったことには、より高い意味がふくまれている。この局部的、一時的な利害を、労働者階級の一般的、恒久的な利害とむすびつげて理解し、このなかにあって一般的、恒久的利害の方向に動かしていきうる者は、理論を身につけた政治的指導者である。これがまさに理論と実践との統一である。
 いかなるばあいにも、運動は、純粋な理論そのままの姿を示してはいない。社会党員がどんなに理論の勉強をしても、労働組合員がどんなに組合のことに献身的であっても、人びとはすべての人間のもつ短所と長所とを、それぞれの個性にしたがってちがった分量で、もっている。純粋性を要求することがまちがいではない。しかし、すべての労働者の運動は、かならずそのなかに純粋性、理論性をもちながら、不純性、非理論性、すなわち「割り切れないもの」をもっている。「割り切れる」運動しかしない、という人間は、運動をしない人間である。理論と実践の統一とは、「割り切れないもの」に包まれた複雑なもののなかに、つねに「割り切れるもの」を発見し、これを成長させることに、たゆまない努力をすることである。手をよごさないで蓮根を掘る方法はない。泥土のなかでなければまっ白な蓮の花は咲かない。
 
 われわれの運動はクリストや釈迦のように純粋に空想の産物である者の運動ではなく、現実に生きている人間の協力によって成りたつ運動である。ここになかなか困難な問題がある。人間は、長短あわせもっている。その顔のちがうようにその個性をことにしている。好きな顔やきらいな顔があるように、好きな個性やきらいな個性がある。すべての人に正しい意味の競争心があるとともに、自分だけが目立ち、自分だけの功にしたいという劣等で浅はかな虚栄心もある。しかもこれらすべての人間が協力しなければならない。現に協力している。もし人あって、他の人のもっている欠点の故にこの人と協力することを拒否するとすれば、そこには運動はない。その人がどんなに純粋で高遠な理論をもっていても、これほど非実践的な態度はない。これほど非革命家的態度はない。そこには理論と実践の統一はない。
 社会主義は一人の人間では実現はできない。天才にも、それはできない。社会主義は一に協力、二に協力、三に協力……である。しかも、その協力は大衆的な永続的な組織的な協力である。組織の先頭から末端まですきまなくむすびついた協力である。そこには指導者はあっても、個人崇拝はない。かつて三鉱連は一一三日の闘争をたたかいぬいて勝ったとき、その報告書は、その闘争を「英雄なき一一三日の闘争」と名づけた。それは一人の英雄によって勝ったのでなく、組合員のすべてが英雄であることによってえた勝利を意味した。
 
 このことと関連して、私は党の規律にふれたい。組織の活動に規律がなかったら、活動にならない。規律を守る精神の薄いほど、その党の実践力は弱い。
 われわれの党は、何ものかに強制されてはいる政党ではない。旧軍隊のように盲目的な服従を強いる集団ではない。規律は党員が自主的に守るものである。党員たる者は、どんな地位にある人でも、委員長から末端の党員にいたるまで、党の規律を厳守することがなかったら、その党の強化はありえない。われわれの政党がどんなに高度の理論で武装した党員から成っていても、規律が守られなかったら、理論は実践されることはない。実践されない理論はないに等しい。理論と実践の統一は、規律なくしてはおこなわれえない。高度の理論をもった党員が、人形としてではなく、人間として、自主的に、規律を守るところに、はじめて民主主義的に組織された社会主義の強大な政党ができる。
 
  二 階級闘争の政党であること
 
 社会主義を実現しようという政党が、階級政党でなかったらおかしい。社会主義を資本家階級とが談合して実現しようというのは空想である。資本家階級の存在をなくする運動に、資本家階級の力を借りようというのであるからである。
 すべての階級社会における支配階級は、被支配階級の労働の搾取によって存在し繁栄し、またそのために没落している。資本家階級もこの例外ではない。今日の社会で土地のように自然に存するものを除けば、いっさいの富はいうまでもなく労働者階級がつくりだしている。全労働者階級が労働することをやめたら、全日本人は死滅する。資本家階級が富み、かつ資本を蓄積することのできるわけは、労働者のつくりだした富の多くの部分が、搾取されているからである。だから、労働組合は、労働者階級の利益を守るために、階級的に組織されている。資本家も組合員である労働組合などというものはない。かりに、それが労働組合と名のっても、われわれはこれを御用組合という。
 
 労働者の主として経済的な利益を守るために組織された労働組合が階級的な組織であるのに、全労働者階級の全体的な利益を守る組織、したがって、革命政党という最高度の階級的な(労働者階級的な)組織が、階級政党でなかったらおかしくないか!
 社会主義政党が国民政党と規定されたら、自民党との区別はなくなる。自民党は国民政党と名のっている。国民政党というからには、階級対立を否定する。したがって、その政党の党員には、資本家も労働者も差別なくはいることができる。資本家階級と仲よくはいる社会主義政党などというものはない。
 自民党には労働者ははいらない。自民党が資本家、ことに独占資本家の政党であることは、あまりにはっきりしているからである。自民党は日本の人口のきわめて小部分を占めている独占資本の利害を代表する政党であるから、逆に国民政党と名のらなければならない。その恥部をかくす、いちじくの葉が必要となるからである。労働者階級の政党は、労働者階級を中核として、農民、小経営者などの独占資本から搾取されている勤労者の利害を代表する政党であるから、国民の圧倒的多数の土台にたつものである。その正体を知られて恥じなければならぬところはどこにもない。堂々と階級闘争の政党であることを名のらなければならない。われわれが、自民党とともに国民政党と名のるならば、労働者その他の働く階級に、その階級的利害のためにたたかうべき方向を見失わせることとなる。これほど社会主義の実現を阻止する政党はない。
 
 われわれの政党が階級闘争の政党であることを全国民の前にあきらかにするのは、この闘争をつうじてのみ階級対立を除去することができるからである。社会主義社会の実現によってはじめて階級のない「国民」が生まれる。われわれが階級政党として階級闘争をおこなうのは、じつは階級対立そのものを除去するためである。自民党が国民政党と名のるのは、働く階級の搾取される現実をごまかすことによって、階級対立をいつまでも存続させるためである。
 国鉄労働者はその組合の日常活動によって、組合員の意識を向上させ、組合を強化させつつあった。そのことは、この春の闘争に示された。総評も、各単産の強化に応じて強化されつつあった。このようにして、総評の労働者は、この春にある程度の効果をあげて、労働者階級の日常生活を多少とも向上させることに寄与した。支配階級のもっともおそれる労働運動の高揚という事態が生まれた。最低賃金法さえ実現させる力に成長しようとしていた。総評のこのような成長は岸政府にとってのみならず、独占資本の存在そのものにとってこのうえもない危険な状態である。
 
 このような事態のもとで岸政府は、全労、その他意識のおくれた労働者と総評とを対立させ、総評を全労働者から孤立させるために、あらゆる策をろうしはじめた。国鉄労働者のあいだに第二組合をつくる動きを助成しはじめた。日教組の手足をしばって、その活動力を狭める方策を講じはじめた。弾圧と懐柔、堕落させ買収し、等々、工夫をこらして、組織された労働者の力を弱めるためのたたかいを開始している。法を利用し、新聞、雑誌、ラジオを動員して、いわゆる「世論」を形成しながら、労働者階級にたいして全面的な攻撃をくりひろげている。まさに「近代的」「民主主義的」武器の全力をあげて攻撃に転じようとしている。いまやブルジョア民主主義が独占資本の独裁であるゆえんはここにろこつに暴露されている。
 このように独占資本の攻撃にたいして、労働者階級が決意を新たにして戦線をととのえつつある時、これを撹乱するかのように、ジャーナリズムのうえでは階級対立が緩和され、新しい資本主義が発達しはじめたというアメリカ製の議論が宣伝されつつある。資本蓄積の発達とともに、階級対立が尖鋭化してくるというマルクスの理論はもう古いというのである(注3)。彼らは、組織されつつある労働者階級に対抗する支配階級の武器がやはり組織された階級闘争の方法であることを忘れている。旧い方法がいわば野蛮な物理力をもってする弾圧であるのにたいして、新しい方法はブルジョア独裁のあらゆる方法をもってする組織された力の利用なのである。なるほど警官となぐり合いをするとか小規模でバラバラの暴動的な行動にでるということは、高度に発達した資本主義国では少なくなった。支配階級にとっては、少数の暴力的蜂起を個別的に撃破することは容易である。それは一見はげしい抗争にみえる。しかし、このような「蜂起」は資本主義を根底からくつがえす力にはならない。組織された労働者の力が、たとえば国鉄のばあいにみられたように、生産を停止させることは、資本主義的機構そのものの麻痺を意味している。資本主義の最大の脅威となりつつあるものは、労働者階級の組織なのである。
 
 「生産性向上運動」も、生産性向上は人類の幸福になるという一般的抽象的議論をもって労働者をごまかしながら、労働組合を懐柔し、その組織を無力化しながら、労働強度を増大し、大量首切りをおこなうことによって生ずる労働者階級の組織の抵抗力を破砕せんとする資本家階級の陰険な新しい攻撃方法であるにすぎない。
 このように、両階級の組織力は、新しいたたかいの形態をもって相うつ形勢を生みつつある。われわれは、ここに階級対立の緩和をみるのでなく、新しい事態にそなえる新しいたたかいの態勢を準備しなければならない。われわれの平和革命もまた階級闘争の形態の変化に即応して、労働者階級の民主主義的な組織力によって遂行される革命を意味するものであって、武力革命にたいするものである。それは階級闘争によらない談合の「革命」を意味するのではない。われわれがあげて力を集中すべきことは、社会党にとっても、労働組合にとっても、一にも、二にも、三にも、……にも、階級闘争の組織の強化ということである。国民政党論は、社会党の闘争力をびっこにしている
 
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