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無産階級運動の方向転換(2)
 
                            五 労働組合運動はどうか
 無産階級運動のいま一つの方面ーー労働組合運動のほうはどうだろう。
 組合運動も同じことである。日本の組合運動は、なんといっても、労働階級のうちのごく少数の運動である。もちろん今日でも、組合運動は社会主義運動よりも、分量が大きいには相違ない。しかしこれは当然のことであって、無産階級の政党(日本では社会主義運動が、まだ無産階級の政党にまで発達しておらぬが)は、政治上の意見と綱領とを条件として結束するものであるから、いきおい労働階級中の前衛たる人びとの団結となるが、組合はすべての労働者を産業的に包容することを理想とする粗織である。かように組合運動は本来の性質からいって、社会党よりもいっそう包容的なものである。これを勘定に入れて考えると、日本の組合運動は、社会主義運動と同じほど、きわめて少数の運動であるといってよい。
 組合員の総数からしてごく少数であるが、この組合運動の中心となって、実際活動している分子は、さらに少数である。今日の日本の組合運動は、労働階級の大衆の運動というよりも、むしろごく少数な、労働階級の先覚者の運動たる性質を多分にもっている。そしてこれらの先覚者は、分量においてこそ少数であるが、鮮明な階級意識をもち、その思想の徹底し純化している点においては、一○○年、一五〇年の歴史を有する外国の組合運動とくらべて、すこしの劣りがない。けれどもそれと同時に、これらの少数の労働階級の先覚者が思想的に徹底し純化していればいるほど、その周囲の一般組合員との聞には、かなりに思想の上、行動の上の距離がある。さらに労働階級の大衆との間には、いっそう大なる距離がある。
 かように日本の組合運動は、まだ今日のところでは、労働階級の大衆の運動というよりも、むしろ労働階級の先覚者たり前衛たる少数者の運動であって、組合は当面の経済上の利害のみをもって集まった団体というだけでなく、同時に多かれ少なかれ思想的に集まった無産階級の政党、ないしは思想団体たる性質をも、いくらかもっている。かような点では、日本の社会主義運動と労働組合運動との間には、いちじるしい類似がある。
 これは何故(ナニユエ)であろうか。いうまでもない。無産階級運動は(とくに日本の状況の下では)まずこうした第一歩をふみしめる必要があったからである。もっとも早く階級意識の黎明(レイメイ)にふれた労働階級の少数者は、社会主義運動の場合と同じように、まず自分自身をはっきりと見さだめ、まず組合運動の最後の目標を、明確に見きわめる必要があった。資本主義の思想と心理に支配せられている労働階級の大衆から自分を引き離して、まっしぐらに思想的に徹底し純化する必要があった。この準備がなくしては、ほんとに深刻な労働組合運動はおこらない。少数ではあるが、真実にまた徹底的に資本主義の精神的支配から独立して、純粋な無産階級的の思想と見解との上に立った労働階級の前衛が現われてこそ、無産階級運動は初めて生まれてくる。
 これは無産階級運動の第一歩であった。日本の組合運動はこの第一歩をふみしめた。しかも、りっぱにふみしめた。
 しかし日本の組合運動が、もしこの第一歩をふみしめたままで同じ場所にとどまるなら、もしこの第一歩をふみしめた瞬間に、ただちに第二歩をふみだすことを忘れるなら、日本の組合運動も、ひとたび日本の社会主義運動のおちいった同じ誤謬をくりかえさねばならぬ。
 
                            六 われわれの新しい標語
 日本の無産階級運動−−社会主義運動と労働組合運動―−の第一歩は、まず無産階級の前衛たる少数者が、進むべき目標を、はっきりと見ることであった。われわれはたしかにこの目標を見た。そこで次の第二歩においては、われわれはこの目標にむかって、無産階級の大衆を動かすことを学ばねばならぬ。無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するために、まず思想的に徹底し純化した。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を、はるかうしろに残して進出した。今や前衛は敵のために本隊から断ち切られる憂いがある。そして大衆をひきいることができなくなる危険がある。そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し、純化した思想をたずさえて、はるかの後方に残されている大衆の中に、ふたたび、ひきかえしてくることでなければならぬ。なお資本主義の精神的支配の下にある混沌たる大衆から、自分を引き離して独立することが、無産階級運動の第一歩であった。そしてこの独立した無産階級の立場に立ちつつ、ふたたび大衆の中に帰ってくることが、無産階級運動の第二歩である。「大衆の中へ!」は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ、
 この新しい評語を実現するためには、日本の無産階級運動−−社会主義運動と労働組合運動―−は、つぎのごとき意味で、方向転換の必要がある。
 
                          七 大衆は何を要求しているか
 無産階級運動の第一期には、われわれは自分の思想を純化し、無産階級運動の以後の目標を、明らかに見ることを第一義とした。そしてそのためには、われわれは行動の効果を、十分に考える余裕がなかった。無産階級運動が第二期に入ると同時に、われわれは一面には、この目標をいっそうはっきりと認めつつ、一面には無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そしてわれわれの運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ。われわれは資本主義の撤廃を目標とする。われわれは資本主義の撤廃以下の、いかなる改善も、決してわれわれを解放せぬことを知っている。けれどももし無産階級の大衆が、資牛主義の撤廃を要求しないで、現に目前の生活の改善を要求しているならば、われわれの当面の運動は、この大衆の現実の要求を基礎としなければならぬ。われわれは、生産は生産者によって管理されねばならぬことを知っている。けれどももし労働階級の大衆が、まだ生産の管理を要求しないで、現に一日一○銭の賃金増額しか要求しておらぬなら、われわれの当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。われわれの運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得てこなければならぬ。
 これは革命主義から改良主義への堕落であろうか。決してそうではない。大衆の行動を離れては革命的の行動はなく、大衆の現実の要求を離れては、大衆の運動はないからである。革命主義と改良主義との岐(ワカ)れるところは、われわれが日常当面の運動の上で、大衆の実際の要求に譲歩するか譲歩せぬかにあるのではなくて、かような実際の運動と実際の闘争との間に、大衆の要求を高めて、最後の目標に進ませることに努力するかいなかという点にある。
 敵にたいして非妥協的の態度をとるために大衆の実際の要求と妥協する結果として、われわれはいきおい無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日よりもいっそう重要視しなければならぬ。いいかえれば、われわれの運動は実際化されねばならぬ。
 
                          八 政治の否定と政治的対抗
 したがって無産階級の運動は、ブルジョアの政治にたいしても、決して無関心であってはならぬ。なぜならば政治がブルジョアの支配を意味しているかぎりは、民衆の生活は、政治から直接の影響をうけるからである。早い話が、労働者が工場における悪戦苦闘によって、やっと一割の賃金増額に成功しても、税金の掛け方にすこし手加減をするとか、金利政策で物価をすこしばかり吊り上げさえすれば、譲歩させられた二倍も三倍もを、労働者から取り戻すことができる。かくて労働階微が経済上の戦線で得た勝利は、無産階級が政治的に無関心であるかぎりは、政治上の戦線で、ほとんど戦わずして敵のために取り返されてしまう。それと同じく政府の収入が、どんな税金で取り立てられ、そしてどんなあんばいに支出せられるかは、決してブルジョア政治家の遊戯ではなくて、痛切に無産階級の利害に関する問題である。たとえば海軍の縮少から生じた剰余金が、営業税の引き下げのために使われるか、それとも失業防止のために振り向けられるかは、賃金がふやされるか、へらされるかという問題と同じほど、労働者の生活に直接影響する問題である。この剰余金が同じく教育費に振り向けられるにしても、高等学校の増設に用いられるか、それとも小学校の学用品や食事の支給に使われるかは、無産階級の利害に直接の関係がある。今日の政治は、民衆の生活−−ことに民衆の経済生活−−と没交渉な政治である。政治をもっと民衆の生活に触れしめねばならぬという者がある。けれども無産階級の生活−−ことに無産階級の経済生活−−に触れない政治がありうるであろうか。政府が議会に提出し、ブルジョアの代表者が協賛を与える十数億の予算のうちの一銭一厘といえども、究極において、生産者たる無産階級の生活に触れないものがあるであろうか。ブルジョアの政治は、つねに無産階級の生活に触れている。ただに触れているばかりでなく、多年の搾取のために生きながら毛をひきむしられて赤ただれにただれた無産階級の生活に、残酷に触れている。
 ある人はいうだろう。政府はブルジョアの政府である。われわれはその政治に何ものをも期待せぬ、と。その通りである。われわれは政府から何ものを与えられようとも期待せぬ。それゆえにわれわれは、すすんで政府に要求−−懇願ではない−−しなければならぬ。いやしくもわれわれの欲するもの、いやしくもわれわれに必要なものは、ブルジョア政府の手から、すべて闘って取らねばならぬ。虚無主義者はいうだろう。政府はブルジョアの政府である。無産階級はただ、彼らの政治をそっくり否認すればたくさんである、と。これはちょうど、蝿は不潔な虫である。われわれはただこれを絶滅すればよい。われわれはこの不潔な虫を相手にせぬ、この不潔な虫を相手にすることは、やがてこの不潔な虫を認めることになる、われわれはこの不潔な虫を認めないといって、現在、頭の上にとまっている不潔な虫を追わぬのと同じである。われわれがただたんに頭の中で彼らを否認している間にも、頭の上では、彼らは勝手に不浄物をおとしている。現在の政治はブルジョアの支配であるにもせよ−−いなブルジョアの支配であればこそ−−このブルジョアの支配たる政治が現にわれわれを支配し、現にわれわれの生活に直接深刻な影響を与えている以上は、われわれはブルジョアの政治を度外視することはできぬ。われわれは積極的にブルジョアの政治と戦わねばならぬ。ブルジョアの政治を、たんに消極的に否定して納まっている結果は、ブルジョアの政治を肯定し支持するのと同じことになる。たんなる思想上の否定は、決してブルジョアの支配と積極的に闘う道ではない。われわれのなすべきことは闘いである。ブルジョアの政治と闘わぬ者は、ブルジョアの政治を援(タス)けている者である。
 資本主義の社会は、ブルジョアの支配する社会であるとしたならば、われわれはいやしくもブルジョアの権力と支配との現われる場所では、いかなる方面、いかなる戦線でも戦わねばならぬ。しかるに政治の戦線は、ブルジョアの支配と権力とが、もっとも露骨に現われ、もっとも直接に現われる場所である。もし無産階級運動が、ブルジョアの政治をただ思想的に否定しただけで、いっさいの政治上の問題に無関心であるならば、それは政治の戦線におけるブルジョアジーとの闘争を回避しているものである。たんに現行の制度を思想的に否定しただけでは、現在の制度に、楊子(ヨウジ)のさきでつついたほどの手傷をも負わしめることはできぬ。もし無産階級が真にブルジョアの政治を否定するならば、たんに消極的に否定するばかりでなく、積極的に否定しなければならぬ。いいかえれば、積極的にブルジョアの政治と闘わねばならぬ、ブルジョアの政治にたいして、無産階級の政治を対立させなければならぬ。
 もっともこの点については、日本の労働組合運動は、最近にいちじるしく傾向が変わってきた。今年のメーデーの評語の一つは、労農ロシア承認の要求であった。これは明らかに、労働階級の政治上の要求である。生活権の要求にしても、失業問題解決の要求にしても、または最近における過激法案反対の要求にしても、これらはみな国家にたいする労働階級の要求であるから、政治上の要求であり、したがって無産階級の政治的運動であるといってよい。
 
                              九 全線の方向転換
 われわれの第一歩は、無産階級運動の最後の目標を見きわめることであった。われわれはこれを見きわめた。われわれは思想的に徹底し純化した。われわれは思想的に革命主義者となった。けれどもこの革命主義者は、まだ大衆を動かすことを知らぬ革命主義者であり、大衆と共に動くことを知らぬ革命主義者であった。革命の思想を知って、革命の運動を知らぬ革命主義者であった、
 そこでわれわれは第二歩においては、この目標と思想との上に立ちつつ、大衆を動かすことを学ばねばならぬ、そして大衆を動かす、ただ一つの道は、われわれの当面の運動が、大衆の実際の要求に触れていることである。そしてわれわれがこの目標と思想との上に立ちつつ大衆を動かし、大衆と共に動くことを学んだとき、初めて××(革命)の思想が××(革命)の運動となるのである。
 これがためには、われわれは、あれもつまらぬ、これもつまらぬという消極的、回避的、懐疑的、虚無主義的の態度を棄てて、積極的、戦闘的、実際的とならねばならぬ。われわれはいやしくも資本主義の支配と権力との発露するあらゆる戦線において、無産階級の大衆の現実の生活に影響するいっさいの問題にたいしてたんに否定の態度から積極的闘争の態度に移らねばならぬ。
 これが日本の無産階級運動の、全線にわたって行なわねばならぬ方向転換である。日本の無産階級運動は少数の精鋭な革命的前衛を産み出した。これが日本の無産階級運動の第一歩であった。日本の無産階級運動は、大衆を動かすことを学ばねばならぬ。これが日本の無産階級運動の第二歩である。
 「大衆の中へ!」。しかしながらわれわれはそれと同時に、なお資本主義の精神的支配の下にある大衆の中に分解してしまうてはならぬ。われわれがせっかくふみしめた第一歩を棄てて、少数の前衛が大衆の中に分解してしまうたなら、その時こそ無産階級運動の一歩前進ではなくて、革命主義から改良主義と日和見主義への堕落である。
 
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