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                     無産階級運動の方向転換
                                                                   山川均
*初出は『前衛』1922年7・8合併号。ここでの底本は川口武彦編『道を拓く 山川均・大内兵衛・向坂逸郎論説集』(社会主義協会 1991年)。長文のため二ページに分けて掲載。  次のページへ  
 
                            一 右翼と左翼との見解
 急進分子が前に進もうとすると、保守的な分子は、いつでもこういって彼らをひきとめようとする−−ものごとには順序がある、われわれは、一足(イッソク)とびに目標に達することはできぬ、われわれは一歩一歩と、よくふみしめて進まねばならぬ、と。
 これはたしかに真理である。一丁さきに行くにしても、一里さきに行くにしても、われわれは一歩一歩ずつ足をふみかえて歩むほかはない。この点は、急ぐ人も、ゆっくりの人も、同じである。そのごとく、保守主義者も急進主義者も同じである。
 しかしながらわれわれが第一歩をふみしめるのは、第二歩をふみだすためである。保守主義者は第一歩をふみしめることを知って、第二歩をふみだすことを忘れている。
 日本の無産階級運動は、ちょうど今、第一歩をふみしめた。われわれは第二歩をふみださねばならぬ。
 
                              二 少数者の運動から
 無産階級の運動は、まず大衆にさきだって階級的にめざめた、少数者の運動からおこってくる。
 階級意識は天から降ってくるものでもなければ、地からわきでるものでもない。それは資本主義の社会には、搾取者の階級と被搾取者の階級とが対立しているという、生活の現実がわれわれの頭に映じた影である。階級意識は五人や三人の非凡な天才のみが意識することのできるむつかしい理屈ではなくて、いやしくも資本主義の社会に生活している以上は、無産階級全体の頭のなかに、一様にわいてくる意識である。一様にわいてこなければならぬ意識である。しかしそれには多少早いと遅いの差別はある。太陽はかっきりと午前五時何十分かに地平線上にでる。しかしすべての草本が、同時に一様に、太陽の光線に触れるわけではない。それと同じく、資本主義の太陽は無産階級全体の上にひとしく照り輝いている。しかし資本主義の太陽を反射する階級意識の光線は、まず少数の人びとの頭に、はっきりと映じる。そこで階級意識にめざめた無産階級のうちの少数者の運動がまず現われる。
 この少数の先覚者は、まず自分の頭に映じた思想を、できるだけ、はっきりさせなければならぬ。それにはいきおい、自分と周囲の大衆とを区別する。無産階級の大多数は、まだ資本主義の心理と思想とに、全然支配せられている。そこで少数の先覚者は、まず資本主義の精神的の支配から脱して、完全に思想の独立をしなければならぬ。そこでいきおい、自分の周囲の大衆とは、ある程度まで思想的にわかれなければならぬ。
 かようにある程度まで、無産階級の大衆から思想的にわかれた−−いいかえれば、一般大衆から思想的に馳けぬけた−−少数者が結束して、まだ団結も意識もない混沌とした無産階級の大衆の間に、ちいさいながらも、ぼんやりとした、かたまりになる。
 この時代は少数の先覚者が、まず自分自身を、はっきりと見さだめねばならぬ時代であった。無産階級運動の目標を、はっきりと見きわめなければならぬ時代であった。そこでこのちいさなかたまりは、ますます思想的に純化し、ますます思想的に徹底する。その階級意識はますます鮮明となり、資本制度にたいする考えはますます深刻となる、そしてわき目もふらずに、ただ一直線に当然の結論に驀進(バクシン)する。そこで初めて、資本制度そのものの撤廃以外には、無産階級の解放はありえぬという明確な思想に到達する。そして真にわれわれを解放するものは、この以後の目標に達する刹那の××(革命)的の行動であって、それ以下の行動−−日常目前の生活を改善しようとする運動のごとき−−は、畢竟(ヒッキョウ)ねうちのないものだという、はっきりとした確信のもとに行動するようになる。そして少数の先覚者の言動は、ますます急進的になり、ますます「革命的」の色彩をもってくる。
 階級意識がまだはっきりとしておらず、階級的の団結も組織もない混沌とした無産階級の大衆のうちに、きわめて少数ではあるが、徹底した思想の上に立って、徹底した行動をとろうとする戦闘的の分子が生まれ、この分子がなんらかの形で結合したときに、無産階級運動は、まさにその第一歩をふみしめたものである。そして日本の無産階級運動は、この第一歩をふみしめた。しかもりっぱにふみしめた。われわれは第二歩をふみださねばならぬ。
 
三 社会主義運動の第一期
 これは日本の無産階級運動の、二つの方面−―社会主義運動と労働組合運動−−を見ればよくわかる。私は二つの無産階級運動といわないで、無産階級運動の二つの方面という。社会党(無産階級の政治的団体)の運動と労働組合(無産階級の産業的団体)の運動とは、無産階級の二つの運動ではなくて、無産階級運動の二つの方面であって、手のひらの裏と表のようなものである。
 日本における今日までの社会主義運動は、ごく少数の運動であった。この少数は、資本主義そのものの成熟し発達するにつれて、ふえたには相違ない。現に急速にふえつつある。けれども、ともかくも、日本の社会主義は今日にいたるまで、一度もまだ大衆的の運動となったことはない。
 日本の社会主義運動は、思想的に徹底した。少なくとも戦争前までの各国の社会主義運動にくらべたなら、日本の社会主義運動は、思想的には徹底し純化していたことを認めねばならぬ。けれども日本の社会主義運動が思想的に徹底し純化するためには、高価な代価が払われている。すなわち大衆と離れたことである。
 過去一〇年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった。そしてこれはまだ無産階級の大衆が、全然資本主義の心理と思想とに支配せられていた時代に、独立した無産階級の考え方と、独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった。そして日本の社会主義運動は、この点においては成功した。日本の社会主義運動は過去二○年間を通じて、つねに階級闘争主義と革命主義との上に立っていた。日本の社会主義運動の思想には、一度も妥協主義や、日和見主義や、改良主義がまざっていたことはないといってよい。おそらく日本の社会主義者ほど、明白に資本主義の撤廃という最後の目標をのみ見つめていたものはない。けれどもこの最後の目標を見つめていたために、かえってこの目標にむかって前進することを忘れていた。いかにしてこの目標にむかって前進すべきかという問題を忘れていた。われわれは資本制度の撤廃という理想を、たいせつにしまっておいた。このだいじな理想に虫がつかぬように、しみができぬように、いつまでもその純真と純潔とを損ぜぬように、たいせつにしまっておいた。
 そしていやしくも資本制度をすぐさま撤廃することのできぬいっさいの問題や運動には、なんらかの興味をも持たなかった。国家はブルジョアの支配の道具であるとしてみれば、無産階級が国家に何ごとを要求してみてもつまらない! 政府は資本家階級の委員会であるとしてみれば、その政府の政治をつかまえて、かれこれいってみたところでつまらない!資本制度の存続するかぎりは、部分的の改善を得たところでつまらない。いっさいのものを得るか、しからざればなんにもいらぬ。いやしくも××(革命)以外の、いっさいの当面の問題はつまらない!これが過去二〇年間における、われわれ社会主義者の態度であった。
 
                        四 われわれは誤っていた(注一)
 しかしながらこうした潔癖な「革命的」の態度をとることになれば、資本制度のもとにおこるいっさいの事がらを、ただ片っ端から口さきや筆さきで否定するだけあって、まず一〇人か二〇人の御定連が集まって、革命の翌日を空想して気焔をあげるか、巡査を相手に「革命的」の行動にでて、一晩の検束をうけて大いに「反逆の精神」を満足させるくらいが関の山である。資本制度を否定はするが、実際においては、かえって資本制度そのものには、小指一本も触れてはおらぬ。かような消極的の態度をとっているうちは、社会主義運動が思想的に純化すればするほど、それは無産階級の大衆とは離れてくる。かような態度は虚無主義者の理想であっても、決して社会主義運動−−すなわち無産階級の大衆的運動――の態度でないことはいうまでもない。そしてわれわれはたしかに、この誤謬におちいっていた。
 階級的にめざめた少数者が、まだ資本主義の精神的支配の下にある一般大衆から自分を引き離し、まず思想的に独立し、思想的に純化することは、無産階級運動の第一歩として必要なことである。そして無産階級の運動が、一度は必ずかような時期をも経過しなければならぬことは、前にも述べた通りである。けれどもそれはただ、無産階級運動の第一歩である。この準備の第一歩に、二〇年間を費やしたことは、たしかにわれわれのあやまちである。第一歩をふみしめることを知って、第二歩をふみだすことを知らなかったのは、たしかにわれわれの誤りであった。われわれの運動は、思想的には徹底し純化した。けれども実際運動の方面では、二〇年間かかって第一歩をふみしめたばかりで、第二歩をふみだすことを忘れていた。われわれは思想的には純粋の革命主義者となった。けれども実行の上には、次の一歩をふみだすことを忘れる保守主義者の誤謬におちいっていた。
 それにはもちろん、日本の社会主義運動が、世界に比類の少ない逆境に育つたということと、日本の資本主義の発達がおくれていたという事情をも勘定にいれねばならぬ。けれども私はそれよりも過去におけるわれわれの誤りを、大胆率直に認めたい。少なくとも形勢の一変した今日と今後においてわれわれが依然としてかような態度を守っているならば、われわれは許すべからざる誤謬をつづけているものである。
(注一)この一語は不幸にして、後日いろいろの議論の種子となった。すなわち一方では無産階級運動の反対者は、この一語をもって社会主義者の「懺悔」(ザンゲ)であり、「詫証文」(ワビショウモン)であると見た。そして日本の社会主義運動と労働運動との過去は、ことごとく「誤謬」であって、今や社会主義者自身がこの誤謬を承認し告白したものである。したがって日本の無産階級運動は、過去の誤りを悔悟して、正しい軌道、ないしは正しい指導−−改良主義の軌道ないしは小ブルジョア進歩主義の指導?−−に従わねばならぬと主張した。それと同時に一方には、無産階級運動の同情者の間、ないしは無産階級運動の陣営の間にすらも、日本の無産階級運動の過去はことごとく誤謬であり、したがって無意義であったという意味で、「方向転換」に同意した人びとがある。
 私は無産階級運動の一兵卒として、一個人としては、たえず誤謬を犯し、そして、たえず「悔悟」しているものである。したがって何人から要求せられても、私は喜んで自己の誤謬を承認するに躊躇せぬ。けれども日本の無産階級運動が全体として−−よしそのうちには多くの誤謬があったにせよ−−今日まで誤った道を歩んでいたものであり、したがって今日までに築きえたいっさいを棄てて、全然異なった道をふんで−−たとえば小ブルジョア自由主義の運動から−−出直さねばならぬという見解には、断じて承服せぬ者である。
 私が「われわれは誤っていた」という意味は、本文を正当に理解せられた読者には、もとより明白であると思う。

 
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