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日本型社会民主主義を考える(下)
 
瀬戸宏
 
 
                               四、抵抗と改良の関係
 「科学的社会主義(マルクス主義)が主導的役割を果たす社会民主主義」という日本型社会民主主義に疑問を抱く声がある。その理由の一つは、社会民主主義の政策は改良が目的だが、科学的社会主義の政策は革命のための暴露・抵抗が目的で、両者は相容れないと言うのである。この意見は又、現在の社会民主党の政策は科学的社会主義に基づく暴露・抵抗の色彩が強く残っており、社会民主主義に黄づく改革・改良に統一されていないと言う。
 だが、科学的社会主義は改良を否定し、批判・暴露さえしていればいいと考えているのだろうか。特に、社会党内で科学的社会主義を主張していた部分がそうであろうか。山川均は戦前の労働組合運動を回顧して言う。
 「労働条件の維持や改善を目的とする闘争、社会革命を直接の目標としない闘争は、すべて経済主義であり、組合主義であり、改良主義の闘争であるとして軽ベツされ…あらゆる機会をとらえて争議を激発するとともに、これらの一つ一つの争議を、革命的な政治闘争−いわゆる権力闘争―に発展転化させなければならない、そしてこんなのがマルクス主義的な政治行動なのだ−こういう小児病的政治主義とでもいうべき幼稚な考えが、いまから三〇年近くの昔、わが国の労働組合運動の一部を支配したことがあるのです」(山川均『社会主義への道』四九〜五〇頁、一九五六年)。
 
 すなわち、“正しい批判”“暴露”だけしていればいいという考えである。もちろん、山川均はこのような発想を強く否定する。
 「こういう考え方は、労働者階級の日常生活の改善のための闘争と、完全な解放のための闘争、部分的な要求のための闘争と究極目標のための闘争、経済上の闘争と政治上の闘争、これら二つのものを対立したものとして、対立せぬまでも平行線のようなものとして対置し、そして二つのうちどちらを取るかというふうに問題を出しているのであって、こういう機械的な考え方が根本的にまちがっていることは、言うまでもない」(同五〇頁)。
 
 これからわかるように、山川均など社会党内で科学的社会主義を提唱してきた人たちは、“正しい批判”“暴露”だけをしていればいいという発想を、むしろ強く批判してきたのである。ここで引用したのは労働組合運動に関する発言だが、政党の政策についてもあてはまることはいうまでもない。重要なことは、抵抗・暴露と改良の結合である。
 ただし、現実的有効性を持つ政策作りは、十分な調査研究、異なる社会階層の利害調整など高度な政策立案能力を必要とする。このため、がっての社会党などの政策宣伝に時の政権の矛盾の暴露をしていればいいという傾向がなかったとは言えない。しかし、これは社会党などの政策立案能力の弱さであり、科学的社会主義の理論そのものの問題ではないことも理解できるだろう。
 
 現実的有効性を持つ政策のみを主張する人たちに私か疑問を感じるのは、政策を実現させる力がどこから生まれるか明らかにしていないことである。“正しい”政策を作りさえすれば、自動的に支持が集まり選挙で勝てると考えているのだろうか。さらに、狭義の社会民主主義といえども、その理想に基づく矛盾の暴露、抵抗は否定しないのではなかろうか。
「日本社会党の新宣言」(一九八六年)も「日本社会党は、人権が脅かされたり、民主主義の基本が侵されたり、戦争への道が強制される場合に、まさに絶対的に抵抗する」と述べている。暴露、抵抗の要素を完全に排除し実現可能な政策作りが目的化されてしまえば、それは社会民主主義ですらなくなるのではなかろうか。旧民社党が歩んだ道は、それを示しているように思われる。
 
                              五、共同戦線党の理解
 社会民主主義は多様性を特徴とするから、その党は必然的に共同戦線党にならざるを得ない。日本型社会民主主義も例外ではない。党大会などで民主的な討論が行われていたことが、日本社会党が支持を集める理由の一つでもあった。
 共同戦線党とは、もともと山川均が一九二七年の『労農』創刊号に掲載した「政治的統一戦線へ」で次のように提起したことから始まっている。
 「長崎を志すAと、大阪を志すBとが、大阪への到着を限定された共通の目標として、共同戦線を形成したと仮定したらどうだろう」(山川均自身が共同戦線党と協同戦線党の双方を使っているが、ここでは共同戦線党で統一する)。
 
 これに対して疑問を唱える意見がある。山川均が共同戦線党を提唱したのは戦前の特殊な状況下のことにすぎないというのである。だが、そうだろうか。山川均の共同戦線党論を、いま一度確認しておこう。
 「わが国の無産政党発達史のある時期にとなえられた共同戦線党という言葉は、…労働階級の政党はボリシェヴズィム的な党、すなわち少数の職業的革命運動者の集団としての党でなければならないとする思想に対立して主張せられたものだった。・・いかなる社会主義政党も、少数の革命運動者の集団ではなくて大衆性をもった党である以上は、多かれ少なかれ(党内の多様性を認めるという意味での・・引用者)共同戦線党の性質をもつものだということを忘れてはならぬ」(山川均『社会主義政党の話』社会主義協会版三三〇〜三三一頁)。
 
 山川均は、さらに「共同戦線党というという思想は(当時においても)しばしば誤り解せられていたし、今日もその伝統がのこっている」と当時の右派社会党運動方針案を引いて指摘する。
 「社会党が民主的な大衆政党であるということは、かつて一部の人々の考えたような共同戦線党の意味での大衆政党であることを意味しない。・・いわゆる共同戦線的大衆政党は、しばしば対立するイデオロギーをもった諸集団の疎慢な連合体にすぎない…明白な綱領と政策によって結集せられた社会党は、かような共同戦線的な大衆政党でなく、また、あってはならない』・・社会主義政党は、この草案のいうような意味での共同戦線党であってはならないことは、疑いがない。いずれにせよ、共同戦線党という言葉は、それが当面の問題となっていた当時においても、いまこの草案が理解しているような低俗な意味にも理解せられていたのである」(同三三一頁)。
 
 共同戦線党をこのように理解する時、山川均が『社会主義への道』で社会主義政党の必要事項として述べた党の統一した意思の形成、強力な指導力を持った中央指導部の確立、全党員が統一された意思によって行動する訓練と厳格な統制、と共同戦線党は必ずしも矛盾しなくなる。諸ブルジョア勢力の集合体である自民党ですら、法案審議などで「党の統一した意思の形成」を強力に追求することは、私たちが目にするところではないか。かつての日本社会党の弱さは共同戦線党だったからではなく、共同戦線党としても不十分だったことにあるのである。また、現在の日本で、日本共産党(あるいはかってのソ連共産党など)のように実際には党内でさまざまな意見がありながらそれを隠し“一枚岩”を装うあり方は、現代日本の議会政党としてふさわしいのだろうか。
 ここで社民党(社会民主主義政党、共同戦線党)と社会主義協会の関係について述べておきたい。山川均の比喩に基づけば、社会主義協会がめざすものはあくまでも長崎である。長崎とは、革命を通しての労働者政権の樹立、すなわちプロレタリア独裁と生産手段公有化実現である。これは『社会主義協会の提言』および『提言補強』を通して変わっていない。
 
 しかし、社民党が共同戦線党である以上、大阪までの人とも協力しなければならない。社民党は共同戦線党であるから西欧社会民主主義を究極の目標と考えている人もいる。他にも宗教社会主義などいろいろな立場の人がいる。それで当然かまわないわけである。そういう人とも協力をして党としての一体性の形成に努めていかなければならない。共同戦線党も党であり、党としての一体性がなければ党として機能しない。社会主義協会は、長崎までを見据えているからこそ、党の取りまとめの面でも積極的な役割を果たさなければならないのである。
 社民党綱領「社会民主党宣言」は科学的社会主義の宣言、綱領ではない。しかし科学的社会主義を排除するものでもない。同様に西欧社会民主主義に純化したものでもない。社民党内のごく一部に、「社会民主党宣言」が西欧社会民主主義に純化したものにならなかったのを残念かっている人がいるようである。しかし「社会民主党宣言」は西欧杜民主義を信奉する人を排除するものでもない。
 
 社会主義協会が科学的社会主義者の集団であるなら、なぜ社民党を科学的社会主義の党にすることをめざさないのか、という人がごく少数だがいる。しかし、現在の社民党に“路線論争”を行なう余裕などないことは、誰にも明らかであろう。むしろ共同戦線党という組織性格を積極的にとらえ、その特性すなわち多様性とそれを保証する党内民主主義の充実を十分に発揮して、さらに党の影響力を広げていくべきであろう。そしてその過程で旧社会党勢力の再結集をはかっていく。さらにはより広範な護憲勢力結集をはかっていく。社会主義協会に求められているのは、そういう姿勢ではないだろうか。これは、社会主義協会が杜民党の内外でこれまでと同様に科学的社会主義やマルクス、エングルス、レーニンなどの著作の研究、学習、普及活動を行なっていくことと矛盾するものではない。
 
 共同戦線党に革命が指導できるのか、という疑問を述べる人がいる。私は、この問題には楽観的である。現時点の共同戦線党は、確かにさまざまな考えの人を含むものである。しかし、そのような人たちも資本主義の矛盾が激化するにつれて変化し、社会主義の必然性、必要性を自ずと理解するようになるのではなかろうか。山川均の比喩にたとえれば、大阪までで良いと思っていた人たちも、大阪まで来てみると大部分はやはり長崎まで行こうということになるのではないだろうか。革命情勢とは、そのようなものであろう。もちろん、そのためには社会主義協会などが不断に科学的社会主義の普及宣伝を行うことも、必要である。
 この項の最後に、社会主義協会が長崎すなわちプロレタリア独裁と生産手段公有化実現を現在も放棄していないことについて、誤解のないように述べておきたい。ソ連東欧などで行われたプロレタリア独裁と日本のそれは同じ形態はとらないということは、社会主義協会はソ連崩壊以前から繰り返し述べてきた。また、現在もプロレタリア独裁を放棄していないからこそ、ソ連などでプロレタリア独裁の名の下になぜその本来の理想とはまったく逆の事が行われたか、今後も引き続き深く研究しなければならないのである(注7)。生産手段公有化、社会化が国有化と同じではないのも、今日では社会主義協会内の共通認識となっていることであろう。
 
                                  六、市民の党
 今日の社会民主主義のあり方を考える時、“市民派”“市民の党”の問題は無視できない。市民とは、地域に住むさまざまな人々の総称である。現在の日本では、その大多数は労働者階級を中心とした勤労諸階層である。地域では労働者階級は各種住民の中に溶解し階級性は現れてこないが、勤労諸階層が多数であるからこそ地域で真に市民の立場に立とうとすれば政府・資本に対して抵抗的にならざるを得ない。この意味で、労働者の党と市民の党は本質的には対立しない。また、階級性を主張しないが反政府、反大資本の立場で市民の要求実現を図るという点では、“市民派”は社会民主主義そのものである。
 現実の各種市民運動には、市民の“自発性”を重視し特定の組織や政治党派を嫌う市民主義の傾向も強い。だから、かつての社会主義協会の中に、市民運動に冷淡な傾向があったのは事実であろう。しかし、今日ではいわゆる市民層と結び付かなければ選挙、特に地方議員選挙で勝つことはできないし運動の発展もない。
 
 では、市民の党とは何だろうか。市民主義の党とするなら、それは実際にはありえない。市民主義は政党など固定した組織を否定することを重要な内容としており、市民主義の党は自己矛盾だからである。仮に市民主義に基づく党を追求する人がいたとしても、まもなく矛盾が激化して党から去るか、考えを変えるかのどちらかであろう。
 社民党の中で市民の党を積極的に主張する辻元清美氏は、旧社会党と自己の考える市民の党の違いを次のように説明する。
 「旧社会党は労働組合の支持で維持されてきたのはまぎれもない事実です。でも、私か考える社会民主主義を掲げた市民の党としての社民党は『労働組合が支持を決めたから、組合員ひとりひとりが支持する』政党でなく、『労働組合が決めなくても、組合員ひとりひとりが支持する』政党でありたいのです」(辻元清美『永田町航海記』二三二頁)。
 
 労働組合依存ではなく労働者に依拠した党建設を、というのは、一九六四年の「成田三原則」以来社会党自身が掲げてきたことである(注8)O実際には、三〇年を経てもそれが克服できず消滅したのであるが、辻元氏の発想は、旧社会党の理論と運動からみても決して違和感のあるものではない。
 ただし、市民の党の具体的な組織論はというと、辻元清美氏の著書を読んでも極めて漠然としている。情報公開および支持者とともに方向を決めるという程度のことしか述べられていないのが実情である。この二つですら、実際に行うのは決してたやすいことではない。たとえば、二〇〇二年辻元氏議員辞職の原因となった秘書給与問題も、辻元事務所の情報公開が十分に行われていれば起こりえなかったことである。
 
 市民とは地域に住むさまざまな人々の総称であることはすでに述べた。そうだとすると、市民の党は多様な人々を組織しうる党のことであり、それは山川均の言う共同戦線党にならざるを得ないのではなかろうか。市民の党は旧社会党以来の運動と切れたところにあるのではなく、そう名乗ったかは別にして社会党自身も地域支部建設などを通して理論上運動上で追求してきたものである。そうであるなら、旧社会党、社青同などの組織活動の経験は、“市民の党”に対しても大きな参考価値があろう。繰り返すが、市民の党は労働者者の党と対立するものではなく、市民の党建設の模索はそれ自体が日本型社会民主主義豊富化の一過程であろうし、かつての社会党用語を使えば、市民の党は階級的大衆政党の収容な一側面であろう。
 

1、その代表的なものに近江谷左馬之介・篠藤光行編著『社会民主主義を考える』(労大新書一九九一年) がある。
2、本稿は、瀬戸宏の既発表論文「科学的社令主義と社会民主主義の関係整理についての試論」(『社会主義』二〇〇五年二月号)、「日本型社会民主主義を考える」(『社会主義』二〇〇五年一二月号)、「日本型社会民主主義の展望」(『社会主義』二〇〇六年六月号)を基礎に、その内容を整理したものである。
3、この問題に触れた論文に、加藤哲郎「社会民主党宣言から日本国憲法へI−日本共産党二二年テーゼ、コミンテルン三二年テーゼ、米国OSS四二年テーゼ」(『葦牙』ご二号二〇〇五年)がある。
4、日本型社会民主主義という用語の直接の初出は新左翼系の岸本健一『日本型社会民主主義』(現代思潮社一九六六年)であるらしい。しかし、岸本健一も同書で清水慎三に示唆を得てこの用語を考案したと述べている。清水慎三も後に日本型社会民主主義を用いている。本論の日本型社会民主主義の意味内容は、清水慎三のものである。
5、「毛沢東主席の黒田寿男社会党議員等に対する談話」(一九六一・一・二四外務省中国課監修『日中関係基本資料集一九四九〜一九六九』霞山会昭和四五)に「日本の社会党は特別な社会党で、世界でも他にあまり例がありません。これは日本の環境がつくったものです。」とあるのがその出所か。ただしこの時の毛沢束談話の中国語原文は公表されていない。
6、紙幅の関係で新社会党についてここで述べることができない。「日本型社会民主主義の展望」(『社会主義』二〇〇六年六月号)第三節「新社会党と社会民主主義」を参照されたい。
7、その初歩的な総括は、社会主義研究会編『二〇世紀の社会主義とは何であったか』(えるむ書房二〇〇一年)を参照されたい。山崎耕一郎『ソ連的社会主義の総括』(労大新書一九九六年)も参考になる。
8、「労組依存とは必ずしも労働組合、組織労働者の力に依拠して選挙選をたたかうという意味ではなく、機関のしめつけによる票の割当に安住し、日常活動によって地域住民を組織する努力も、党の政策を訴えて新たな票田を開拓する努力も放棄し、労働組合をあたかも個人後援会のように見なす安易で保守的な活動方式のことである」(成田知巳「党革新の前進のために」社会新報一九六四年一月一日付)。
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