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                                小島恒久を偲びて
                                   小島 祥弘

*本文は2019年8月31日開催「小島恒久代表 偲ぶ会」しおり掲載の同文を、小島祥弘氏の同意を得て転載するものです。転載を快諾された小島祥弘氏のご好意に厚くお礼申しあげます。(労働者運動資料室HP管理人)
 
2019年3月4日に兄恒久の葬儀が福岡市彩苑長住斎場で行われました。個人の遺志により無宗教形式で5人の方から弔辞をいただき、花を捧げるという、質素ながら心鎮まる、野辺の送りでした。兄が遺した歌集『原子野』、『晩祷*』(*祷、原文は正字)を掌に別れの言葉を述べました。この折の拙い言葉を、しばし日をおいて改稿し、ともに生きた日のよすがとするものです。
 
兄恒久は昨年春頃から体調をくずし、日赤病院、福岡病院で治療をしていましたが、ほぼ回復して、この1月から「えがおで寺塚」に入っておりました。1月8日に見舞った折りに昼飯に誘われ、近くのラ・カロデンアに同行しました。ビフテキを残さず平らげ、食欲の旺盛なのには驚きました。「お袋や、向坂先生の歳を超えたから、もう十分に生きたよ」、笑いながらの会話が、最後の言葉となってしまいました。
 
 結核病み被爆せし身が永らえて八十二となる癌をもちつつ
 原爆症と認定されし癌もちて猶いくばくを生きゆくわれか
 
10年前に詠んだ短歌です。結核を病み、被爆し、その後もいろいろ病気しながらも、昭和、平成と激動の93年を頑張って生き抜き、充実した人生だったと思います。
 
大正14年2月20日、小島国松、あやの長男として佐賀県杵島郡武雄町で生まれました。明治期に小島藤次郎という人が天秤棒担ぎの魚売りから料亭を興し、武雄では一番の『八百屋』にするまで精を出した家でした。二代にわたり子に恵まれず、養子を迎えて家業を繋ぎました。その小島家に初めて生まれた男の子が恒久でした。“神から授かった子”として、大事に、大事に育てられました。聡明な子てしたから、ほかの兄弟とはまったく違う扱いだったことを、今でも鮮明に憶えています。
 
昭和10年に父国松が35歳で脚気衝心のため亡くなりました。その時母は30歳、兄は小学3年生でした。翌日年には実母キヨ、弟靖敏が、2年には大舅ワキが亡くなります。さらに13年には商売している家が半焼、15年には祖父源七が死去。不幸がつづき、さらに新築した家の借財が重なっておりました。母はひとりその身に家業を背負い、死に物狂いで働き、5人の子供を育てあげました。けれども兄は「私たちには一言ももらさなかった」と母を偲んで編纂した「しのぶ草」のなかで回顧しています。
 
当時は卒業生のうち10人に1人ほどしか進学できなかった旧制佐賀県立武雄中学校ヘ一番の成績で入学しました。
わが子の進学の夢を支えた母の奮闘もさることながら、兄はその期待に十分に応えた自慢の息子でした。母の命日3月3日とほぼ時を同じくして逝ったのも何かのめぐり合わせかもしれません。
 
 うら若く借財背負ひ寡婦となりわれら五人を育てたまいき
 商ひにつねに忙しき若き母のやさしかりしかなわが病める時に
 位牌持ち士葬の父の棺に従きこの坂行きしは小三の秋
 
中学校でも成績のよかった恒久は第一志望の旧制佐賀高等学校に受験するも、その試験前日に風邪をひき不合格。第二志望の長崎高商へ進みます。ところが、その長崎で昭和20年8月9日に被爆。この体験がその後の生き方の原点になりました。“ピカドンで恒久は死んだ”と母や祖母の嘆きは耐え難いものでしたが、12日の夜中に襤褸着で武雄に帰りついた時の喜びようは、大変なものでした。
 
 被爆地より還りし襤褸の吾を抱きし母の腕の温み忘れず
 夜半覚めし隣り間に母らささやきゐきわが原爆の症状危ぶみて
 
その後、本人は東大進学を希望したようですが、母親と遠く離れることを気兼ねして、昭和22年に九州大学経済学部に進みました。
ドッジ不況と朝鮮戦争前夜の重苦しい時期で、学園紛争が荒れていました。卒業とともに大学院特別研究生(旧制)に進みますが、その指導教官が生涯の人師と仰ぐ向坂逸郎先生でした。
 
 満員の講堂に君を仰ぎしよりたぐひて四十余年の学思
 経師を得るは易く人師は難しと言ヘリその師に遭ひえしわが若き幸
 
昭和30年に大学院を修了。九大の教養部で経済史の教鞭をとるようになり、後には大学院でも日本の近現代経済史を講義、昭和63年に定年になるまで九大一筋に学究生活を続けました。この間、学外の忘れがたい体験として、三池闘争を挙げています。「この闘争の修羅場での体験は、私に研究室ではおよそ得られないような多くのことを教えてくれた。そしてその後、各地の労働者の学習会や市民の講座などに出かけてゆく機縁ともなった」と記しています。
 
 分裂が友を割き増悪生みゆくを三池争議にまざまざと見つ
 三池争議にスクラム組みし日は遠く最後の炭鉱が声なく今日閉づ
 
昭和37年に文部省留学生としてイギリスを中心に約一年間ヨーロッパ留学。マルクス・エングルスの主要な居住地を丹念に訪問しました。「私の目を広い世界に開かせるとともに、改めて日本の姿を見直させた。そして日本の近現代史研究の必要性を痛感させた」。
 
昭和43年から九大は学園紛争の西日本の拠点として、米国原子力空母エンタープライズの佐世保入港反対闘争の全学連の拠点となった教養部本館はバリケードで封鎖されました。恒久の研究室も学生に占拠されてしまいます。
 
 押しかくる全共闘避け学外にて会議重ねし日も早遠し
 封鎖解かれ催涙弾臭残る館に入りて荒れたるわが室を見き
 
そして、1989年、昭和から平成に移った年に熊本商科大学(のち熊本学園大学に改名)に移り、日本経済史と日本経済論を講じました。比較的リベラルなキャンパスで、二度の短期留学の機会を得るなど、居心地がよかったようでした。70歳で定年になるまで勤め、その後数年は非常勤講師として教壇に立ちました。
 
 これ程のことも知らずに講じるしか職退きて知る学の深さを
 教ふるとは恥しのぶこと己が無知に幾度ほぞかみ壇を下りしか
 
大学を離れ自由の身となってから、43年ぶりに学生時代に親しんだ短歌の世界へ遊ぶようになりました。封印していた被爆の体験を次の世代に伝えていかなければとの思いが芽生え、40年もの空白を破ってヒロシマ・ナガサキ、そしてオキナワと戦争の悲惨を詠じました。「原子野」は福岡市文学賞を受賞しました。続けて「晩祷」を出版。宮地伸一先生、添田博彬氏への悼句より。
 
 「惑へる星に一瞬を生く」と詠みし君に時の間従き得しわが幸思う
 病やや良き日は「リゲル」六十周年の夢など語る君にてありき
 
研究生活を支えてくれたのは、昭和35年に結婚したみつ子の献身的な労苦があったからこそです。外での顔とちかって、家ではあまり口もきかず部屋にこもりきり、家計をかえりみず本を買い漁り、家庭人としては普通ではなかったようですが、みつ子はふたりの子供を立派に育てました。その苦労を知りながらも、素直に表現できない不器用な兄貴でした。
 
 『学者馬鹿』の吾に沿い来し五十年心から笑ふ日はなかりしというああ
 一合炊けば一日の食足る妻とわれ愛しみて生きむよ共にある日を
 
孫も3人、すでに社会人となっておりますが、孫の成長には目を細める優しき爺でした。自分の被爆体験をつたえたいと、長崎へ伴ったとも聞いています。
 
 子の学費稼ぐとパートに努むる嫁の痩せしを目守る妻と吾とは
 世紀逝く日を長崎に伴ひて孫に見せゆくわが被爆地を
 
告別式で弟が兄貴を語るなど、不躾な仕業だとは存じますが、どうかお許しください。皆様のご縁に助けられながら、小島恒久はいい人生を送ることができたと感謝申し上げます。有難うございました。
 
 妻と子をかへりみるなく書に埋もれ過ぎし一生になにをなし得し
 時流に乗る器用さなければ一つの思想愚かに守り来ぬ悔やまず今は
 
本稿は6月8日社会主義協会九州支局の小島恒久元代表の偲ぶ会に寄せられた小島祥弘様
の「小島恒久を偲びて」をここに掲載させて頂きました。