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『種蒔く人』と秋田の無産運動 ―民衆の目覚め―
 
*『社会主義』05年6月号より転載。  
 
野添憲治
 
@ 鉱山によって変わった秋田
 
 最初に、秋田はどんなところかをお話しします。人口が一〇〇万人を割ろうというところですが、お酒の消費量も、女性が行く美容院も日本一です。不幸なことに、自殺をする人もここ一一年、ずっと日本一です。本の購読数は下から二番目で、戦前からある『家の光』という雑誌も、売れないそうです。一人当たりの所得は少なくて、郵便局の貯金残高は毎年最低、これも日本一。だいたいこんなところです。第一次産業で食べてきたのです。
 米はかなり早く、縄文後期からつくられていました。凶作は割に少ないです。去年は強風で、直接海の風が吹く沿岸はやられましたが、内陸部の横手、湯沢などの米所はむしろ豊作で、全体としてはそんなに収穫が落ちてないです。対馬暖流が、山形県沖の飛島にぶつかって二本になり、一方が秋田県沖を通って津軽海峡に消えます。凶作というのは寒さのためですね。青森、岩手には寒流がきて、凶作というと本当にゼロになるんですが、秋田では五割くらいは採れます。
 
 よく、藩政時代に百姓は米を食えなかったと書かれますが、秋田の農民は食べています。天保の飢饉のとき、食料を求めて青森、岩手から山を越えてきたら、秋田では温泉でどんちゃん騒ぎをしていたという古文書が残ってるんです。あまり権力に刃向かわなくても食えるので、土一揆・百姓一揆は少ないです。そこで、あまり努力をしない県民性が、培われたのです。これは批判じゃなくて、とてもいいことだと思うんです。
 大正七年の米騒動も、県内ではほとんど起きていません。私は、あのときもうちょっと他県の困った人を助けていれば、と思っております。
 秋田が変わるのは、鉱山によってです。秋田には藩政以前から鉱山がたくさんありました。とくに県北地方は、どこを掘っても金銀銅が出るというので有名でした。太平洋戦争が終わったときに、県内で六九の鉱山が稼働していました。六〇年後の今は小坂鉱山だけ。ここも掘るのは止めて、古鉄の処理などで一五〇人くらい働いています。
 
 坑内で働くと珪肺、「よろけ」ともいわれますが、鉱石の細紛で胸がやられます。鉱山地帯のお寺の過去帳とか、墓を調べると、三〇歳を越えた方はめずらしいです。一三、四歳で坑内に入って、成長盛りに粉塵を体に入れちゃうのですから。男が早く死ぬので、残った女性が三回も四回も結婚したなんていうのはざらにありました。
 よそからもたくさんの鉱夫達が入っていますが、待遇改善運動は藩政時代にはあまり起こっていません。資料が消されちゃっている面もあると思いますけれども。
 
 鉱山労働者が、初めて争議をしたのが、大正八年です。県北の小坂鉱山の大ストライキです。「お化け煙突」といわれた大きな煙突の煙が、一週間も消えたんです。溶鉱炉の火が消えたのと同じですね。相当大きなショックを、鉱山も、秋田県内の人たちも受けたと思うんです。
 大正八年暮には、隣の花岡鉱山でも一五〇〇人の鉱夫のストライキが起きました。このあたりから秋田県の労働者が変化しました。なぜ変化したのか、それは私にとっては大変おもしろい、調べ甲斐のある問題です。
 
A 小坂鉱山と細越農民の闘い
 
 小坂鉱山は藤田組の経営で、明治の末から六つの溶鉱炉を稼働させて、煙を吐き出していました。煙突というのは、下に害が及ばないのではなく、害を拡散させるんです。そのうち溶鉱炉が八つになって、一〇年たったら周りの野山の木はほとんど枯れちゃったのです。
 最近、小坂鉱山の周りも、国、とくに林野庁の予算でアカシアを植えたりして、いくらか緑が戻っております。かつて煙を上げて儲けた鉱山は植林に一銭も出さないということで、複雑な気持ちです。
 
 亜硫酸ガスというのは田圃や畑に、たいへんな害を与えるんです。小坂鉱山のお化け煙突のすぐ下の、細越という三〇軒ぐらいの集落では、普通でだいたい五割の収穫でした。反収が四俵くらいの土地でしたが、その半分ですから平年作で二俵です。悪い年だとその七割か八割で、一反歩から一俵もとれない農家が、たくさんでたんです。 
 鉱山に交渉したら、「煙害のせいじゃなくて、稲の病害だ」と言われ、一反歩当たり四〇銭の生活補助が出た。大正五年、米一升が三七銭から三八銭の時代です。一二軒くらいが、とても暮らせないということで、北海道の釧路に移住しております。そちらにもいい条件のところはなくて、私も二度ほど訪ねましたが、たいへん苦労をしたようです。
 
 米や大根とか白菜だけじゃなくて、馬、牛もだめになるんです。私は二二、三歳の頃から通っていたのですが、農家に泊まって、朝早く田圃の草を手にとると、晩に落ちてきた亜硫酸ガスが付いていて、手でしごくと黒いのがパーッと落ちるんです。それを牛や馬が食べるのですから、当然、子どもは産まないし、四歳までも生きない。よろけて、すぐ食われちゃう。それでも鉱山は一反歩四〇銭、約米一升の生活補助しか出さなかった。大きな鉱山は、みんなそうでした。
 農民たちが変わったのは、細越の集落から東京にでて関東鉄工組合に入っていた本田福松さんという人が、帰ってきてからです。親たちが「うちも北海道に行こうと思うので一回相談に来てくれ」と言うので、久しぶりで帰ってきたんです。あまりにひどい煙害にびっくりして、北海道行きを待たせて、東京に帰って日本農民組合関東同盟本部と鉄夫総連に応援を求めたわけです。
 
 そのときに東京から来たのが、川俣清音、加藤勘十、浅沼稲次郎、三輪寿壮という人たちです。私が行った頃、まだ覚えている人がたくさんいました。浅沼さんは学生で、穴の空いたレインコートを着て、腰には汚たねえ手ぬぐい下げて、下駄履いて来た。声が大きくて耳が痛ぐなったと、笑って教えてくれました。こういう人たちが細越、砂子沢などの農家に泊まって、夕飯、朝飯を食べながら、いろんなことを教えたんです。農民たちも、一反四〇銭で泣くことはないと、日本農民組合小坂支部を結成するんです。
 とくに影響を与えたのが鉄夫総連から来た可児義雄でした。彼は岐阜県出身ですが、足尾鉱山で働いて組合に入っていて、秋田県では付きっきりになって、後でそれが原因で肺結核で早く亡くなりました。こういう学生や、学生を終わってすぐの若々しい人たちが、農民の中に入った。
 
 農民組合の第一回のストライキでは、新聞にも載っていますが、一番先にむしろ旗を立て、「煙害をなくせ」「補助金を増やせ」。次には赤ちゃんをおんぶした母さんたちが行列を組む。三番目はかろうじて生き残っていた牛や馬を連れて行って、鉱山に「このままじゃあ飯食えない」と迫った。
 警察も、鉱山が「自衛」のために雇った、主に九州と北海道から来た暴力団も、子どもや年寄りが杖ついてくるのには手を出せなかった。馬や牛は鉱山の事務所の前でうんこ垂れた。それで幾らか金を渡して解散させた。それを毎日続けたんです。運動の原点みたいなものを、そういう形で細越の農民たちは身に付けた。目覚めていくときの農民は非常に面白いです。四〇銭で我慢して、鉱山様鉱山様と言っていたのが、メキメキ変わったんです。いい指導があれば、人間が変わり得るのは、今でも同じだと思います。
 
 農民の中から、指導者も出てきました。こうなると本当に強いですね。多田喜一郎さんという人は、町の助役でしたが、鉱山の言いなりの町政をやっていられないといって辞めて、組合の書記長を買って出ました。竹槍で鉱山に押しかけたり、変電所に行って線路に電線を絡ませて電気を止めたりしました。農夫たちはビラ撒きをするようにもなりました。大正の終わり頃、農家の女性たちが鉱山地帯を歩いてビラ撒きしたなんて、想像できないことです。
 鉱夫たちも、あまりに賃金が安く、病気は多いし、このままじゃ食っていけないと、労働争議を始めました。細越の農民たちは、自分たちも食べるものはあまりないけれども、一緒に頑張ろうということで、お米や野菜を届けた。商店街の人たちも、早く解決してほしいと、売れ残った物をどんどん農民や鉱夫にあげて、今で言う労農商提携が、非常に素朴な形できた。これが後に秋田県の農民運動の大きな柱になっていくんです。
 
 交渉の結果、細越とよく似たところに試験田をつくり、どれくらいの減収かを調べて、鉱山が保障することになりました。試験田は私の生まれた藤里町にありました。子どもの頃、柵を回した試験田に、役人が来て調べていたので、何だろうと思っていました。そういう形で、小坂鉱山の争議は解決しました。
 このときに闘った農民たちは、私が話を聞きに行った頃はみんな元気でした。浅沼稲二郎さんが殺されたときなんか、集落の集会所に三日も集まって、お経を頼んで泣いたと言っていました。可児義雄さんが千葉の刑務所に入るときはみんなで見送り、差し入れをした。一人が五日くらいいると、また別の人が行って食べ物・衣服を差し入れる。一番困ったのは、こういう本をほしいと書いてくるので、東京まで行ってその紙を見せて、買って差し入れしたと、笑いながら話していました。
 こうして農民がどんどん変わったんです。優れた知識人が農村、山村に入って、一緒に寝泊まりしながら教え合うというのが、人間の成長にとって非常に大きかった。この頃、『秋田魁新聞』は民主的な新聞でした。犬養木堂が主筆にいて、料理屋から毎日通ったというから、まあそれはそれとして、こういう話を電話で集めて、新聞に載せた。今見てもびっくりするような紙面です。
 
B 阿仁前田小作争議
 
 小坂鉱山の争議が終わる頃、阿仁前田小作争議が起こります。青木恵一郎さんは、日本の三大小作争議の一つだと書いています。北秋田郡の阿仁川に沿った本当の山村ですが、庄司家という大地主がいました。昭和二年の資料で田圃が三四三f、畑が四七f、宅地が三五f、山林はもっと持っていて、小作人が七〇〇人でした。庄司家の田圃を二時間ぐらい歩くと、鷹巣の駅に出られるんです。面積は酒田の本間家には及ばないけれど、あの山奥で三四三fというのは、川と道路以外は全部庄司家のものと言っていいくらいです。
 その庄司家が大正一四年に、家の大改築のために、小作料の大幅値上げを通告したのに対して、約三〇〇人の小作人が、この通告を受けることはできないという覚書を地主に届けるわけです。このときに相談に行ったのが細越の農家です。新聞その他で見ていたんでしょう。それで、大正一四年は小作米を地主に納めなかったわけです。
 
 地主側は小作料の請求、土地返還を求めて裁判を起こしました。このときの弁護士が細野三千雄さんで、彼は戦後、代議士になったのですが、泊まるのは農家の土間でした。農民たちに、「君たちは苦労しているんだから座敷に寝なさい、私は大して働いてないから土間でいい」と言って、藁にくるまって寝た。農民たちは感動しちゃうんです。「おらのとこ見ても馬鹿にしねえ」「おらよりも悪いとこさ寝ても何とも思わねえ」と。この人が弁護活動をしたのですが、裁判は負けた。小作人は土地を地主に引き渡して小作料を払え、裁判費用も全部払えという判決が出たわけです。地主側は裁判で勝ったということで、刈り取り間際の稲を差し押さえたり、やりたい放題のことをした。
 地主に反抗した三〇〇人の小作人には、他の住民は口を利かない、お店では物の貸し借りもしないという仕打ちになった。農家はその頃、春から秋までお店から物を通帳で借りて、米が採れたときに決裁していたんです。お店が貸さないから、醤油も着物も手に入らなくなった。
 
 もっと困ったのは、小作人たちが田植えをすると、その晩のうちに地主が雇った暴力団がみんな荒らしてしまう。遠くへ行って苗を集めてきて田植えをしても、また全部かき回してしまう。四回もそういうことをされて、とうとう米をつくれなかった人がおりました。三十何年経って、まだわいわい泣いて、悔しかった話をしてくれました。
 このときは政党の人たちも応援に来たんですが、警察が阿仁前田に入る道路を全部固めて、入れなくしました。小作人たちは全く孤立したわけです。夜中に川を渡ったり、山を越えたりして新聞や食べ物を持ってきたのですが、それでは三〇〇人の命はつなげません。農業をやりながら本当に食べるものもなかったという話をしていました。
 
 この争議は後で、地主側と小作人側が衝突して、負傷者がたくさん出ます。それで可児義雄さんはけが人がたくさん出るのは忍びないと判断して、九人が自首して争議を納めたわけです。このときの決まりは、小作慣行は従来どおりとする、取り上げた土地は小作人に返す、小作料は大正一四年からの値上げを認める、未納小作料は三年据置七年年賦で払う、地主は小作費用一万円を出すという、非常に農家に不利な条件です。
 この細越、阿仁前田の争議と八郎潟の一日市の小作争議は密接につながっています。人の往来もたくさんあって、今も婚姻関係を持っている人がおります。
 
 秋田県で大正一〇年には小作争議は一つもありません。ところが昭和二年には三八、昭和三年には一〇九、昭和九年に四八七、これが最高ですが、昭和一〇年にも四七一の小作争議が起きています。
 大体同じ頃、一日市で小作争議が起きました。一日市町は、今は陸地になりました八郎潟のそばにあります。町の所有している水田を小作人が借りていたんですが、ある年、堤防が決壊して米が全く採れなかった。何とかまけてほしいと町に願いに行ったら、断わられて争議になったわけです。これもいろんな犠牲が出ましたが、昭和六年に終わります。
 
C 生の声を伝えて闘いの継承を
 
 今日の演題に出ております『種蒔く人』というのは、皆さんご存じのとおり、大正一〇年に発行されました。フランスから小牧近江が帰りまして、外務省の嘱託の仕事をしながら、同じ土崎の人だった金子洋文、今野賢三たちと話をして、東京より安いということで、秋田の土崎で印刷したんです。これが『種蒔く人』の土崎版と言われているもので、第三号まで出ました。第四号からは東京で出まして、それが東京版です。
 秋田版は、細越とか阿仁前田とか一日市とか、後で争議をする農民たちが多く買っています。恐らく「買わされた」んだろうと思うんです。小牧近江は「インターナショナルの運動を紹介した雑誌だ」と言っています。こういう高尚な雑誌を、言い方は悪いですが、農民が理解して読者になったというより、その中の幾つかを読みながら、また自分たちを応援に来てくれた労働者や学生たちから、新しい時代が来ていることを肉体的に感じ取ったんじゃないかと思います。
 
 さきほど伊藤茂さんが六〇年安保のことを話されました。私はその頃まだ青年だったのですが、安保闘争の後に、草の根民主主義を地方からということで、秋田県にもたくさんの学生や先生が来ました。普段は会えないような東大出の高校、中学の先生たちと、毎晩のように勉強会をやりました。この人たちから学んだものは本当に多かったのです。東京で真剣に勉強して世の中を変えようという人たちが地方にきて、そこで交流するのは、非常に大きな力になると思うんです。
 秋田県は非常に保守的なところですが、戦後、県北の第一区で、四人の代議士の内二人が社会党というのがずっと続いたんです。細野三千雄さんの運動をしたのは、小作争議のときに助けられた農民たちです。お金をもらわないで、弁当を三つも四つも持って応援に歩いたんです。私のいる藤里村にも来ましたし、後で調べたら能代にも来ているんです。自分たちを守ってくれた、変えてくれたことへの恩返しですね。
 
 争議は大正末期から昭和七、八年までで、戦時中は非常に苦労して生きのび、戦後に選挙運動に参加しました。「あの人は私たちを助けてくれた、ぜひとも当選させねば」と、それが基本です。この人たちが第一線を去る頃、小作争議を支えた代議士も去って、後にくるのは、例えば労働組合の委員長です。委員長が悪いという意味じゃなくて、そういう流れになったんです。本当に残念なのは、農民たちの闘いが子どもに引き継がれていない。小作農民たちは非常に苦労したから、子どもたちを役場や農協に入れる。そうすると権力に立ち向かうような思考の人は、なかなかか生まれない。
 どこでも自分の故郷にはこういう闘いがあったはずだが、これを掘り起こして、若い人たちに伝えること、労働運動のなかから学ぶことが、ほとんどやられていない。実際闘った人の話を聞いたときには、私は身が震えるような感動を覚えたわけですけれども、それがなぜ農民の子どもに伝わらなかったか。地域では郷土史がたくさん出ていますけど、農民の闘いについては、本当にちょっぴりです。
 
 私は第一線で闘った農民を訪ねて話を聞いて歩いたんです。阿仁前田の小作争議は、たくさんの学者が書いています。でもその農民たちのところに行っていない。「俺に話聞きに来たのはあんたが初めてだ。何でそんなことすんだ」と言われました。だいたい県庁とか役場まで来て帰っていくんです。だから本当に闘った農民の肉体的な呼吸は伝わらないんです。
 こういう話は、労働組合のなかだけじゃなくて、学校の勉強でも地元の話は全く出てきません。東京の先生が書いた教科書で勉強して、ゆとりの時間に、トンボや魚を捕ってるけど、自分たちの先祖がどのように生きてきたかを教材に取り上げているところは、一校もないんです。  
 今からでは遅いじゃなくて、今だったらまだできるんです。過去を懐かしむだけじゃなくて、未来を見つめる、あるいは、現在の状況を知るには過去をちゃんと学ぶということが、今こそ求められていると思います。
 
 私は小作争議のことを調べながら、花岡事件とか朝鮮人強制連行の調査もやっていますが、それも実際にやられた人たちのところを歩いて調べております。今晩から九州に行くんですが、九州にはもう朝鮮人・中国人強制連行の生の資料はほとんどないし、あってもだしません。北海道はたいへんおおらかで、同じ三菱でも会社の中に生資料が、多くはないけれど残っています。
 こういうことを生資料で学んでいくというのも、遅い早いということじゃなくて、人間をつくる基本、運動をつくる本当の骨っ節ですから、私はすべきだと思っております。
 
*NPO法人「労働者運動資料室」主催の講演会をまとめたものです。
                         編集部
 
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