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                社青同第35回大会決定・基調
       (2015年10月19日決定)

  *出典は社青同本部から提供された原本ファィル。長文のためニページに分けて掲載

社青同の直面する課題
日本資本主義の特徴
労働運動と社会主義運動の「後退」
国境超え組織される競争と合理化
混迷する政治状況
社青同運動の再建・発展に向けて
古典学習と機関紙活動を柱に組織建設を
 
社青同の直面する課題
 「社青同とは何をする組織か」「社青同に入っている意味は何か」「社青同で何をするのか」…。近年の社青同運動で同盟員から聞かれる疑問です。これは必ずしも経験の浅い若手・中堅の同志からだけ発せられる言葉ではありません。
 地本大会などでベテランの同志から「社青同らしい発言ができない」という悲痛な吐露が聞かれた時期がありました。それどころか、いまや、職場で仲間の先頭に立って職制と対決し、労働強化と長時間労働を強要する会社・当局とたたかい、合理化に抵抗して「生命と権利」を守る…かつてなら当たり前だったはずの社青同の運動が、同盟員の間での教条・教義としてさえ通用しない状況になっています。
 
 同盟員自身が、職場での日々の働き方や労組の役員という立場を通じて資本・当局の合理化施策に協力し、「仕事ができる、できない」で仲間を選別し、ときには「仕事ができない」と見られた青年を職場から排除するうえで一役を買う事態さえ報告されています。何事も与えられた仕事をこなすことが優先で、「生命と権利」が顧みられることがなくなった職場で、社青同の存在意義が問われています。「社青同の任務はまなぶこと」「社青同はまなぶ組織」という言葉も、青年部の役員が学習するところという程度の意味に一般化され、委員会討論や古典学習を経験する機会がないままの状態に置かれている同盟員もいます。
 連合が発足した直後、社青同は以下のように分析していました。「私たちの立場から連合労働運動を眺めるとそこには二つの特徴が明らかである。第一には反合理化、社会主義の否定、第二に、労働者が広範に直面する窮乏化の事実を取り上げていく際の綿密さである」(「体制的合理化の今日」1992年)。そして、連合労働運動に「資本の支配を前提としてモノを考える」つまり階級対立を前提とする視点が欠落している…というより、「連合に移行する段階の総評労働運動には、この「資本の側の再抵抗」という認識が脱落させられたというべきであろう」と指摘しています。
 
 そして、「(連合の)反合理化の否定は決して「窮乏化」の否定ではない」「連合労働運動は、労働運動である以上、広範な窮乏化の事実から決して目をそらすことはできないし、またしていない。むしろ、広範な事実そのものは、総評労働運動以上に綿密に捉えようとさえしている」とも分析しています。
 この分析から20年以上が経った今、私たちが社青同運動の課題としてまなぶべきは、たんに実態・事実を集約・羅列しただけでは、そのまま社会主義運動へと昇華・発展するものではないということ、科学的社会主義者が連合労働運動の内外で(同盟員の配置されている労組は連合加盟、全労連・全労協加盟、あるいは独立系など多様である)社会主義の学習を積み重ね、反合理化のたたかいをふたたび職場に持ち込む努力を進めることです。
 
 具体的な攻防点は70年代、80年代、90年代と違うことは十分に考えられます。私たちの示す「おかしいこと」は職場の仲間には通用しないかも知れません。それなら、かつてのような「社青同らしい」たたかいは取り組めなくとも、どういう課題なら社青同として仲間つくりができるのか、資本への抵抗が組織できるのかを探らなければなりません。
 青年層の失業率が30%を超えるポルトガルや、60%に迫るスペイン、ギリシャに象徴されるヨーロッパに比べると、日本の青年層の失業率は非正規雇用の増加で不安定化しつつも、ひと桁台から10パーセント台前半で推移しています。統計方法上の問題点はあるにしても、日本の青年の大部分は職場にいることは明らかです。ストライキ件数がかつてとは比べるべくもないほど減少する一方、個別労使紛争は増加しています。もはや職場は「社会の安定帯」とは言えません。社青同の主戦場はやはり職場にあります。職場でどう青年と結びつくか、青年に学習と交流を訴える組織の重要性をどう訴えかけるか模索しなければなりません。
 
日本資本主義の特徴
 欧米より遅れて発達した日本資本主義は、資本の集中・集積の低さ、高い中小零細企業比率という、本来なら国際競争において不利になるはずの条件を抱え続けてきました。
 その結果、一つの産業分野内に複数の大企業が並存するなかで激しい競争戦が続けられてきました。大企業は多数の中小零細企業を取引関係を通じてケイレツ生産に組み込み、下請企業どうしの競争を利用し、納品単価の切り下げ、納期の短縮を可能にする構造を作り出しました。
 
 法人企業統計によれば、「企業数」で言えば資本金10億円以上の大企業はわずか0・2%に過ぎない一方、資本金1千万円未満の零細企業が61・4%、資本金1億円〜1千万円の中小企業は37・5%と圧倒的多数を占めます。「従業員数」でも68・3%が中小零細企業に集中しています。しかし、0・2%の大企業が経常利益全体の53・6%を占め、中小零細企業のそれは30・4%に過ぎません。実際の生産活動を担う中小零細企業、そしてそこで働く労働者からの搾取によって独占資本の利潤獲得が成り立っています。さらに、大企業は内部の事業部門を別会社化、子会社化することによっても下請け構造に位置づけられる企業を生み出してきました。こうして、資本の分散性という弱さを逆に「強み」へと転化してきたのです。こうした構造は、資本輸出によって東アジア、東南アジアへと拡大されています。
 多くの労働者が中小零細の下請企業に集中し、賃金が抑制される傾向は、労働者階級の購買力の低下を招き、国内市場の狭隘さとなって現れます。そこに複数の独占的企業が競合することによって激しい競争が生起します。各企業は絶え間ない生産性向上運動で競争を乗り切ろうとします。その武器として技術革新を基礎とする設備投資が繰り返されてきました。この激しい設備投資が日本資本主義のもう一つの特徴です。
 
 新しい生産設備の導入は生産性を向上させますが、激しい競争はたちまち製品単価を押し下げます。改良された設備が次々に導入されるため、生産費を回収できる期間はほんの短い間です。このため、生産設備を24時間体制でフル稼働させることになり、そこで働く労働者もそれに合わせた勤務体系となります。
 80年代以降のME化、90年代以降のIT化の波は、コンピュータ制御の生産機械やパソコンを低廉化しました。零細企業にも最新の工作機械や個人作業用のコンピュータが導入され、長年の労働で培われた熟練に基づくいわゆる職人技が低賃金の非正規雇用の労働力によって置き換えられる事態も発生しています。生産規模の拡大や頻繁な機械の更新に備えて積み上げられた減価償却費は利潤率を押し下げ、企業の利益を圧迫し、大企業さえ赤字に陥る事態が生み出されてきました。そのなかで、以前なら考えられなかったような大企業どうしの事業の再編・統合が大規模な合理化を伴いながら進められています。
 
 「生産様式、生産手段は絶えず変革され、革命されるのであり、分業はより進んだ分業を、機械の使用は機械のより進んだ使用を、大規模な作業はより大規模な作業を、必然的に生ぜしめるのである。これは、ブルジョア的生産をたえずその元の軌道から投げ出す法則であり、資本を強制して、それがすでに労働の生産諸力を緊張させたが故にこれらを緊張させる他なからしめる法則であり、資本にたいし、絶えず進め! 進め! と耳語する法則である」(『賃労働と資本』)。
 赤字が計上される一方で、合理化によって企業の内部には多額の現金が蓄積されています。そして、法人税減税など税制改革や規制緩和などの法整備によって国家がこの資本蓄積を後押ししています。本来ならばこれは新たに生産手段を導入し、労働者を雇用する賃金に転化されねばなりません。しかし、1998年と2012年度を比べると、民間企業が支払った賃金総額は222・8億円から191・1億円にまで減少(▼14・2パーセント)する一方、資本金10億円以上の大企業は純資産(資産総額から負債を差し引いた額)を314・6兆円へと増大させています。激しい競争の下で有利な投資先を見つけられない資本は、労働者を雇用するのではなく、金融投資へと大量に流入し、経済をいっそう不安定化させています。
 
 資本は危機をさらなる合理化で乗り越えようとします。しかし、それは新たな矛盾を準備するものでしかありません。
 「かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使いに似ている。数十年来の工業および商業の歴史は、まさしく、近代的生産諸関係に対する、ブルジョア階級とその支配の生存条件である所有諸関係に対する、近代的生産諸力の反逆の歴史にほかならない。ここには、かの商業恐慌をあげれば充分である。それは、周期的にくりかえしながら、ますます急迫的に全ブルジョア社会の存立をおびやかす」「ブルジョア階級は恐慌を、何によって克服するか? 一方では、一定量の生産諸力をむりに破壊することによって、他方では、あたらしい市場の獲得と古い市場のさらに徹底的な搾取によって。つまりどういうことか? つまりかれらは、もっと全面的な、もっと強大な恐慌の準備をするのであり、そしてまた恐慌を予防する手段をいっそう少なくするのである」と『共産党宣言』で若きマルクス・エンゲルスが喝破した通りの状況が21世紀の今日にも現れています。
 
労働運動と社会主義運動の「後退」
 激しい競争の下、すでに70年代には「不況・赤字」攻撃として労働運動への資本からの攻撃が強められるようになっていました。「労使正常化」というスローガンの下で活動家と組合員が分断され、孤立化が進められました。資本の側から「反合理化を主張する社青同は企業をつぶす」「企業あっての社員・労働者だ」という思想攻撃が強められ、労働組合内からも「1973年のオイルショックを機に、日本経済の低成長と産業・社会構造の変化への労働組合の対応が求められ、民間労働組合は、従来の労働団体の枠を超えた共通認識が高まった」(「連合の進路」)とあるように、企業存続や雇用の危機を前に、労働組合からも社青同の主張が排除されていきました。
 この過程で、国鉄分割民営化に反対した国労が多くの被解雇者を抱えつつ、長きに渡る闘争を粘り強く続けたことが、逆に各労組の役員の間に「抵抗しても勝てない」「長期間の解雇撤回闘争は支えきれない」という「教訓」として受け取られる事態を生み出しました。
 「敵よりも一日長く」ではなく、会社・当局と協調・協力して、合理化を受け入れ、職場と既存の組合員の雇用・労働条件を確保する、という思考方法が労働組合に浸透していきました。その陰にあるのが、非正規雇用の増大と、雇用形態の違いを問わない青年労働者一般の低賃金の固定化や雇用の不安定化です。
 
 今や、ほとんどの労働組合が「労資(使)協調」を掲げています。資本側の論理は「企業が儲かれば社員の賃金も上がる」というものです。労働組合もこの視点を共有し、「支払能力論」「生産性基準原理」をもとに合理化施策の容認と引き換えに賃上げを要求する事態になっています。それは、同盟員で言えば「仕事をきちんとやらないと、職場や交渉で労組役員として発言できない」といった気分として表面化しています。また、労資協調は、社青同の同盟員のいる職場では「おかしいことをおかしいと言えない、思えない」という状況として現れてきました。
 労働組合の要求の自粛といった動きもこのなかで生み出され、90年代後半以降は春闘の賃上げ率はおおむね1パーセント台に押さえ込まれています。儲けは労働者の賃金には還元されていません。労働組合が毎年のように春闘の成果を強調する一方、労働者の賃金が減少している現実があります。14春闘でマスコミをにぎわせた「官製春闘」という言葉は、うがった見方をすれば、政府・資本からは「労働組合はほうっておけばろくな要求さえしないほど弱体化している」と見られているとも言えます。
 
 雇用と賃金の確保は、職場では仕事ができるかどうか、仕事をこなせるかどうかという目線でしか仲間を見られない労働者の状態を生み出しています。低賃金と長時間労働が常態化し、「不満や問題を言っても変わらない」という思いは労働組合への青年の結集力を弱め、「青年部の役員のなり手がいない」「青年部は開店休業状態」という状況となっています。正規雇用・非正規雇用という雇用形態に関わらず、職場や労働条件への不満を、労働組合での抵抗としてではなく、退職・転職という形でしか表現できない青年も少なくありません。そもそも労働意欲さえ喪失している青年の存在も問題になっています。
 行き詰まりを前に、いずれのナショナルセンターも「賃上げによる内需拡大で景気回復を」「公正な分配を」と主張しています。しかし、独占資本はそれに応えようとしません。学習会などで「賃金を上げれば消費が回復して景気回復、企業の業績の向上につながるのに、それができない資本・経営者は無能だ」という意見が出されます。しかし、そうできないのは資本・経営者が無能だからではなく、分かっていてもそうできない仕組みが資本主義社会にあるからです。資本側は、春闘に際して「たとえ自社の付加価値が増えても、それ以上に競合企業の付加価値が増えるようなことがあれば、競争に必要な投資に差が生じ、それが続くと競争力が奪われる」と述べています。
 
 独占資本や一部の労働組合は、非正規雇用の労働者や系列企業の労働者の低い労働条件は企業の利潤の源泉だと言ってはばかりません。そして、それによって得られる利益を、労働組合は賃上げ原資とみなしてきました。しかし、現実には独占資本は莫大な富を手にしてもそれを労働者には配分せず、労働者や労働組合の「協力」「努力」に報いることはありません。2000年代に戦後最長の景気回復期と言われた間にさえ労働者の賃金総額が下がった事実はそれを端的に表現しています。本来なら、労働を通じて富を生み出す労働者の豊かさにつながるべき生産力は、資本主義社会では資本の価値増殖のために蓄積され、過剰資本を生み出し、様々な矛盾をもたらします。社青同はあらためて「階級対立」の事実を仲間に暴露しなければなりません。
 職場実態をもとに運動を進める社青同運動も、組織活動の低下や加盟する青年の減少といった困難に直面するようになります。個別に見れば同盟員を中心に合理化施策への抵抗を粘り強く続ける労働組合が少なからずありますが、そういう労働組合であっても青年の社青同への組織化が思ったようには進まない事態があります。それでも、合理化に終わりはありません。個別の職場での抵抗で終わるのではなく、それらをつなぎ合わせることが必要です。
 
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