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労働組合運動・農民運動と統一戦線(2)
労働組合運動と統一戦線(後半)
     四
 反合理化闘争を放棄する路線が労資協調の組合主義的戦線統一論であり、反合理化闘争を強化する路線が、反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線樹立への道である。日本労働運動は、いまこの二つの道に選択を迫られている。
 日本労働運動にとって当面する課題は、統一戦線の中核となりうる階級的労働組合の育成と強化である。この課題を達成するためのわれわれの基本視点は、総評の階級的防衛と強化でなければならない。総評は、民間的体質の弱点を内包しながらも、こんにちまで、日本における階級的労働運動の建設をめざしてたたかってきた。総評こそが、日本労働運動における戦線統一の母胎であることを自覚しながらたたかってきた。
 だが七〇年代を迎えるこんにち、総評は、この基本路線の解体をせまる左右両翼からの攻撃をうけている。「総評の危機」を克服する道は、反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線の中核部隊としての自覚の認識のうえにたっての、民同的体質からの脱皮に求められなければならない。それは労働組合運動における階級闘争の思想的確立と、その思想に支えられた戦闘的大衆行動の実践である。
 こんにち、日本の労働者階級が直面している、体制的合理化に対応できる組織づくりは緊急な課題である。そのためには、あらためて三池闘争の実践的なたたかいのなかで方向づけられた「反合理化・長期抵抗統一路線」の正当性を再確認し、その発展的継承の道を追求する必要がある。
 いうまでもなく、「長期抵抗・統一路線」は、一定の時期までたたかいを避ける待機主義を意味するものではない。それは労働者にとって真の勝利はただ一度しかないという、階級闘争のきびしさを直視するなかからうまれた、二四時間日常闘争の長期連続的なたたかいの路線である。一揆主義的な玉砕戦術を否定するとともに、待機主義にも対立する路線である。つまり、労資間の矛盾を階級闘争として位置づける立場である。
 したがって当然その思想的背景としては、階級闘争に勝利するために不可欠の、社会主義政党の発展と強化にむけて、一人ひとりの労働者がたたかいを通じて参加していくという内容を包含する。
 この「長期抵抗・統一路線」は、三池労組において、つぎのように整理されて、実践されてきている。
 第一、情勢が悪いときには柔軟な構えをとること。
 第二、しかし、敵の脆弱点には思いきってつけこむこと。
 第三、柔軟な抵抗のなかで反撃を開始すること。
 すなわち、第二であきらかなとおり、これは日常的職場闘争の強調であり、そして第三が示すように、「柔軟」であっても、「抵抗」の論理が原則となっているのである。
 問題は、どのようにして「反撃」に転するかであるが、その条件は以下に要約できる。
 「第一に、大衆の信頼が指導部に集中しているかどうか
  第二に、味方の志気が旺盛かどうか
  第三に、反撃に転ずる手段と目標をどう選ぶか
  第四に、敵の脆弱点の分析・把握が十分かどうか」
 いま、われわれにとって必要なことは、この路線を、党的視点にたってとらえなおし、日本の全労働者階級にたいする反合理化の指導的指針として具体化していくことである。
 この路線を職場に樹立するために、われわれがまず第一に実践しなければならないことは、組合民主主義の大衆路線のうえにたった、職場闘争と職場の労働組合づくりである。
 大衆路線は、技術主義的な幹部による大衆操作、すなわち幹部請負闘争に対立する階級的組織路線である。大衆路線の確立には、組合民主主義が絶対的な前提条件となる。
 この路線を貫徹するために、こんにち、とくに重視しなければならない問題は、「組合民主主義」と「職場闘争」にたいする左右の日和見主義との思想闘争である。
 第一は、右翼的「組合民主主義」論とのたたかいである。こんにち、同盟会議や仝国民連などの右翼労働組合指導部も、「組合民主主義」を強調している。その意味を幹部主義的な組合運営からの脱皮であると位置づけている。ところが、その真意は「企業別組合の自主性を尊重せよ」ということであり、逆にかえすと、政党や産業別指導部による統一闘争を拒絶するための方便以外のなにものでもない。すなわち、ここでの「組合民主主義」は、企業癒着と大衆追随主義の代名詞にほかならないのである。
 第二に指摘しなければならないことは、「大衆路線にもとづく職場闘争」についての極左的理解と偏向である。極左的偏向はいうまでもなく、第一の労働組合運動における右傾化の罰としてうまれたものである。これらの部分は、大衆路線が、ほんらい幹部請負闘争に対立する概念であることをたてまえに、意識的に反幹部闘争組織論として教条化する。さらに、こんにちの機関運営が組合民主主義を抹殺しているという前提にたって、機関決定にとらわれない職場の「山猫闘争」の激発を職場闘争の強化であると主張する。
 それは、あきらかに極左的組織破壊戦術であるといわなければならない。しかも、これらの部分は、現在の総評系指導部をことごとく幹部請負主義と規定することによって、総評の「戦闘的解体」ないしは「戦闘的第二組合」としての組織分裂を推進する結果となる。
 われわれが提起している路線は、これら二つの傾向とまったく無縁である。われわれの主張する大衆路線は、指令動員方式にもとづく形式的な行動参加の活発化ではない。また、機関決定を無視することでもない。機関決定の教条的運用を防ぎとめるために、日常的な活動を通じて一人ひとりの労働者の自覚を高めながら、一部の活動家のみによるたたかいとしてではなく、職場全体のだたかいとして組織する路線である。そのためには、すべての労働者が発言し、そのうえにたって自覚できる場を組織的に保障することが必要となる。
 「小さな団結体」としての「五人組」の意義がここにある。労働者一人ひとりの発言と討論の保障、それが組合民主主義である。
 したがって、われわれが「組合民主主義」にのっとって、発言や討議を保障するということは、もしも、その発言を材料として資本が差別待遇をおこなうようなことがあるときに、その不当労働行為に断固として抵抗することが前提であることを強調しておく必要かある。
 つぎに指摘しておく必要があるのは大衆路線についてである。われわれが徹底的に発言し、討議する場としての「五人組」を組織的に保障したとしても、それだけにとどまるならば、不満の井戸端会議におわる。ここで決定的になるのは指導性である。指導性の欠如した「大衆路線」は、あきらかに大衆追随主義である。
 指導性は、こんにちの帝国主義的支配の構造を透徹して分析しうる能力、すなわち思想性の確立をぬきにしてはありえない。したがって、大衆路線を確立するためには、学習闘争や思想闘争は不可欠の前提条件となる。反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線樹立の客観的条件は或熟しつつあり、したがって、労働者階級を中心とした主体的な組織結集のなかで、労働者階級が権力をにぎることは可能であるという、長期的戦略展望と確信のうえにたちつつも、労働組合運動という大衆運動の組織化にあたっては、つねに一歩前の方向を指示できる実践的経験を豊かにすることが必要となる。
 また戦場闘争とは、職場のなかにおける一部戦闘的分子による、突出したたたかいの組織化を意味するものではない。「戦闘的部分しかたたかえない」という考えは、資本主義的矛盾を理解しない弱さの表現であり、それに起因する大衆不信である。労働者の無言は、資本支配の肯定を意味するものではない。まして満足の表現でもない。
 われわれはねばりづよい日常職場活動の積重ねのなかで、職場労働者を全線的に立上がらせうるという、戦略的確信をもたなければならない。日常性に埋没しているかにみえる労働者が、一定の客観的条件が成熟するなかで、ひとたび大衆行動を高揚させるや、私心を捨て、犠牲をいとわない、すぐれた社会主義者としての魂を発揮するものであることに確信をもたなければならない。
 こんにち、われわれがとくに職場闘争を強調しなければならない理由は、世界的に唯一の例外ともいえる特殊日本型企業別組合の現実に根ざすものである。従業員一括加入としての企業別組合の実体は、従業員に労働者の名を冠しただけにすぎないという組織的弱さを内包している。その弱さをつねに自覚しながら、従業員意識を労働者意識に高めていく活動こそが戦場闘争にほかならない。すなわち組織的な活動とたたかいのなかで団結の必要性をあらためて自覚させることである。それには、なによりもまず労働者組織は資本の支配や介入を許さない組織であるという自覚をもたせることが必要である。職制との対決の意味はそこにあるのであって、職制打倒の自己目的化は、逆に権力の存在についての認識を弱め、運動をサンジカリズムヘ矮小化させる。
 われわれの職場闘争の目的は、組織づくりであり、階級的労働組合運動の基軸となる職場の労働組合運動建設にある。これが、われわれの「大衆路線にもとづく職場抵抗闘争」の位置である。
 もちろん、職場闘争ですべてがかたづくわけではない。しかし、職場闘争はわが国における労働組合の階級的強化の基礎であり、第一歩である。
 第二の課題は、産業別統一闘争の強化である。独占資本の統一指導部である日経連は、こんにちまで一貫して企業内団体交渉と企業内解決を強調してきた。しかし国家独占資本主義の現段階においでは、資本自身にとっても企業内処理は限界にたっしている。
 産業の再編成過程でうみだされた、下請企業をもふくめた資本系列別再整理、およぴコンビナートをめぐる資本系列をもこえた合併や技術提携の進行は、労働者支配の態様そのものの変更を必要とさせた。この新しい情勢に対応する資本の攻撃の一つの方向が企業に癒着させることによって戦闘性をもぎとった労働組合を、形式的に産業別に再整理させることであった。企業丸かかえから、産業別一捨[ママ]支配へと発展させることであった。
 そしていま一つは、独占企業の組合を直接支配下におき、その基幹企業別組合のもとに資本系列下の労働組合を整理続合させて、より矛盾をかかえている中小企業労組の戦闘性を封殺する方向である。
 これらはともに企業のワクをこえた労働者支配の形態である。すなわち、大資本系列別大産業別一括支配の構想である。独占みずからによる産業別労使協議制の推進意図はここにある。この独占の要請にこたえた、形式的大産業別連合体こそ、IMF・JCにほかならない。
 したがって、われわれは職場闘争を通じて企業別労働組合の戦闘性を高めつつ、大産業別統一闘争を強化していかなければならない。具体的には、賃金を中心にくまれた春闘の大産業別統一闘争の方向を堅持するとともに、体制的合理化のもとですべての産業や職場に共通する課題となってきた職業病、労働災害、争議支援などの個別的、課題別統一闘争を強化することである。これらの個別的、課題別の産業別統一闘争の前進が、企業別組合の階級的強化を側面から推進するものであることはいうまでもない。
 第三の課題は、地域労働運動の拡大、強化である。こんにち、この課題は県評、地区労の役割の増大ともあいまって、日本労働運動の階級的強化のうえできわめて重要な位置をしめできている。その役削とは、いうまでもなく各地に広範に存在している未組織労働者の組織化にある。
 現在わが国では、一千万をこえる労働者が組合に組織されているにもかかわらず、一〇〇人未満の中小企業における組織率は、一〇%にも満たない。それらの職場では憲法で保障された労働三権は完全に死文化している。この未組織労働者の劣悪な労働条件が、労働者間の安売り競争を激化させ、全体の労働条件の引下げと無権利状態を生みだす役割を果たしている。県評とくに地区労の任務は、その組織化である。
 もちろん、この組織化にあたっては、未組織であるがゆえに劣悪におかれている労働条件改善の切実な要求を解決していくことが必要であるとともに、最低賃金制獲得のたたかいや、社会保障の拡大などを結合させていかなけれはならない。
 また、生産者米価のすえおきや減反で苦しめられている、「土地もち労働者」である農民の利益を守る労農提携運勣もまた、縦割り的企業別組合運動よりも、県評、地区労などの横割り的組織による指導と実践のはうがはるかに有利であることを確認してよい。このような運動にたいする県評、地区労の指導性がつよまるならば、企業別組合のもつ閉鎖的体質をゆさぶる結果となり、横断的に連帯感と運動をつくりあける契機となりうる。このことは産業別横断組織化をかちとるための一つの重要な契機となる、さらに体制的合理化の被害が、地域住民にたいする産業公害となって拡大している現在、地域労働連動は地域住民を反独占闘争に立上がらせる接点であることをつよく認識しなければならない。

 第四の課題は、社会主義政党、具体的には日本社会党との協力関係の強化である。総評と社会党との間における支持協力関係の歴史は古い。
 総評が社会党支持を決定する原理的根拠としてきたのは、一九〇七年の第二インター・シュツットガルト宣言であった。この『宣言』は、組合運動から(社会主義政党の)政治運動をひきはなそうとする、労働組合主義者の「中立性」「自立性論」を誤りであると断罪したものであった。同時に、労働者階級の運動における社会主義政党の指導性と必要性を認めようとしない、アナルコ・サソジカリズムを論破したものでもあった。
 すなわち、労働者階級の経済闘争と政治闘争を結合して、単一不可分離の全一体として理解したマルクス主義の立場にたって、左・右の日和見主義ないしは分離主義を否定したのが、この『宣言』にほかならなかった。さらにこの『決議」はたんなる政党と組合との共同闘争の必要性を認めただけではなく政党による労組あるいはその他の大衆組織の指導が最大前提となっていることを確認しておく必要がある。
 その意味で、『宣言』を党と労組の支持協力関係の原理的根拠として認めるかぎり、いまあらためて問題にしなければたらない課題が二つある、その一つはこれまで党と労働組合との関係が議論されるとき、そのほとんどすべてが、労働組台の主体的立場にたっての選択というかたちでなされていることである。立論の根拠をそこにおくかぎり、日本社会党を労働組合の政治部に倭小化させる発想はけっしてなくならない。この関係が日本社会党を事実上の大衆組織へと転落させ、一方、労働組合を党の代行的組織とする偏向をうみだした。すなわち、両組織の関係は、自立、対等、協力関係となっており、党による政治的・思想的指導任務が軽視されるという欠陥をうみだしている。
 再検討しなければならない問題は、大衆組織(労働組合)のなかにおける社会主義政党員の独自的政治活動のあり方についてである。産別会議時代において、日本共産党がおかした誤りは組合機関の決議よりもフラクション会議の決議を優先させたことにあった。
 民同運動はこの誤謬を指摘しながら、党の指導下でのフラク活動そのものを否定する論理を構築した。しかし、すくなくとも社会主義政党であるかぎり、大衆運勤のなかにおける政党活動(フラクション機能)を放棄することは決してできるものではない。それは政党運動の論理であり、法則でもある。フラク活動一般を否定した日本社会党員も、この法則性の例外となることはできない。その事実が、組合役員選挙に際しての「人事フラクション」として機能していることは否定できない事実である。
 したがって問題はフラク一般の否定ではなく、かつての日本共産党の誤謬は、フラク活動のあり方の誤りにあったと総括されなければならない。この点の未整理がこんにちでは組合内社会党員の足をしばっている。組合内における党の独自活動がないところから必然的に発生する、組合運動への埋没がみられる。
 職場支部の建設を目的とする「指令第四号」に血を通わせるためには、フラクション論の整理が前提条件とならなければならない。なぜならば、労働組合にたいする党の指導性は、労働組合内における党の独自活動を通して、組合員に日本社会党の政治路線の正しさを認識させることのなかでしか確立されようはないからである。党は自信をもって労働組合運動にとっての基本的な問題にたいする具体的指針をだすとともに、党員がその決定を正しいかたちで組合内に浸透させることは当然の任務であるといわなければならない。
 反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線を強化しうるかどうかは、まさに労働組合を指導しうる党建設と、党員による労働組合の階級的強化にむけての献身と組織化いかんにかかわるといわなければならない。
(以上)
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