社会主義協会第四回総会文書
*『社会主義』1962年12月号掲載。一般経過報告と運動方針からなる。
一般経過報告(社会主義協会第四回全国総会承認)要旨一九六二年一〇月二八・九日 神奈川県箱根
(一)はじめに
昨年八月の協会第三回全国総会は、安保、三池の歴史的な大闘争を経て、日本の労働者階級がその組織力の本格的な整備にとりくもうとしている時期に開催された。
すなわち、日本の独占資本が、アメリカ帝国主義との密接な提携の下に、アジアにおける反共軍事体制の有力なトリデにわが国をくみいれ、国内的には憲法改悪を頂点とする反動政策を一貫しておしすすめるため、その最大の障害である日本労働者階級の武装解除に懸命になりはじめた時期であった。
日本の労働者階級の統一の母体である総評の戦闘性を骨ぬきにし、日本の革新勢力の中核である社会堂の階級性をぬきとろうとする攻撃が一層強化されるであろうことを、第三回総会は予見した。そして、右翼改良主義との闘いを、協会の当面の中心任務に設定した。
総会以後一年の経過は、総会で採択されたこの方針が正しかったことを立証した。
総会はまた、アメリカ帝国主義と手をむすんだ独占資本の本格的な右翼化攻撃から日本の労働者階級を守るためには、協会の指導が一層具体的なものとならなければならないこと、協会員相互の組織的な連繋が飛躍的に強化されなければならないことを指摘した。安保三池の闘いを通じて目をひらいた全国の活動家が、協会に結集し、理論と実践の統一をめざして、社会主義運動の強化、発展をつうじて協会の思想的な影響力をひろめ、協会の理論的な発展をかちとっていく体制を組織し、整備していく条件が広汎に存在していることを明らかにした。
総会後の組織活動の経過は、全国各地の社会主義運動のなかに、協会の旗の下に結集することによってのみ日本の社会主義運動の左右の偏向を克服し、その姿勢をただし、社会主義革命への展望をかちとることができるという同志がみちあふれており、協会全体が一層組織的に発展する基盤が十分存在することを実証した。
いま、第四回全国総会をむかえるに当って、われわれは過去一年の活動について冷静にその成果と欠陥を明らかにし、来るべき一年間の活動の集中点を明らかにすると共に、欠陥については大胆にこれを指摘し、きびしく改めていくことが、今後の発展のために不可欠の要件であると考える。
(二)構造改革論に対する批判
いわゆる構造改革論のもつ理論体系上の矛盾、日本の社会主義運動の主体的な力との遊離については、協会は第三回全国総会以前から、雑誌社会主義その他で、いろいろの角度から批判を加えてきていた。
しかし、昨年の総会のあと、十一月の社会党第三五回中央委における江田書記長の報告は、構造改革論の本質と、それが運動に果す役割について、早急に明らかにし、警告を発しなければ、日本の社会主義運動を右翼化させ、改良主義の方向に導く危険が極めて大きいことを痛感させるものであった。
構造改革諭は、単にその内包する改良主義的な本質によってのみでなく、社会党や労働運動の弱い体質とからみあって、運動を右翼化する危険があるだけに、構造改革論を批判する祝点の設定も慎重でなければならなかった。
協会は、雑誌社会主義の十二月号で、'党内の派閥人事ともからみあった混乱を処理するための第一弾として、太田薫氏の「日本社会党の前進のために−中央委員会をかえりみて」を掲載し、(一)構造改革論の是非を、派閥の立場からでなく、社会主義者としての視点で冷静にとらえること、(二)実践的な検証を欠く空論で批判しあっでも意味がないこと、(三)党の組織問題は、党内の問題でなく、基本的には大衆闘争の問題であるという認識をもつこと−の三点を明らかにし、協会の内外に呼びかけた。
しかし、社会党の選挙政党的な性格と、それにつながる派閥人事の宿痾とは、祉会主義の常道に立つ警告を無視し、党内の対立と混乱は一そう深まり、その影響は、労働運動にも波及しはじめた。事態の進展のなかで構造改革論の右翼改良主義的本質が、一そう明確に露呈された。
もはや、構造改革論の理論体系の矛盾と、その改良主義的本質、その運動に与える実害について、協会の立場からする明確な批判と警告をためらうことはできなかった。
こうして雑誌社会主義の六二年一月号では、中央の協会若手グループを動員して、構造改革論にたいする全面的な批判の火蓋をきることとなった。
また、十二月もおしつまって、ソビエトの旅から帰った向坂代表を中心に、一月の党大会にのぞむ協会の態度について協議し、「社会主義」の臨時増刊号を発行して、全党に構造改革論の本質について警告する必要があるとの結論に達した。(この際、協会の全国の代表を集めて協議することがのぞましいとの意見もでたが、その時間的な余裕がなく、組織的な整備も立ちおくれていたため、ついに実現をみなかった。)
この臨時増刊号における協会の主張の要旨は、つぎのようなものであった。
「一、構造改革論は、独占資本の支配する資本主義社会で、恰も労働者のヘゲモニーの下に、民主主義的、進歩的国有化がありうるかのような幻想をふりまいているが、これは全くあやまりであり、本質的には改良主義そのものである。
三池闘争の中でわれわれが主張した国有化を議会で問題にせよという要求は、独占資本の支配する社会で、少しでも労働者に有利なもの(失業の制限、離職者対策など)をかちとろうとする考え方であり、それによって社会主義の拠点ができるなどという考えは少しもなかったし、構造改革論とは根本的に違っている。
一、西尾派の旧い改良主義を「死んだ犬」のように棄て去ったジャーナリズムは、いま少しく革命的な言辞で化粧した道化役者を必要としている。
構造改革論がブルジョア・ジャーナリズムにもてはやされる理由は、正にここにあることを知らなければならない。資本主義が変ったのではなく、ジャーナリズムが変わったことに注目すべきだ。
一、社会党に欠けているものは、政策の考案や口舌の論議ではなく、行動である、したがって社会党は、運動の常道にしたがって、日常闘争を強化し、党勢を拡大する以外に前進の方途はない。
「先制攻撃」などという勇ましい言葉はあっても、攻撃の主体的な条件がなければ、資本から譲歩をかちとることができないことは自明の理である。
一、社会党のとりくむ闘いは、相手の攻撃や段階に応じ、いろいろの形態をとるものであり、つねに政治的な高度の闘いに直面しているわけではない。
社会党が日常闘争の中で主導権を確立することによってのみ、一定の客観的条件にしたがって、日常闘争を政治的に高度な闘いに、正しく発展させることができる。
一、党運営の近代化は、一貫した方針の下に偏見を去って、適材を適所に配置し、献身的な党活動の意向を尊重することによってのみ可能である、構造改革推進論者のような、左にゆれ、右にゆれる定見なき言動はいたずらに党内の混乱を助長するのみで党の近代化とは全く無縁である。
一、経済闘争と政治闘争の結合について、社会党が学習シリーズ等で発表している考え方は、明らかに労働運動の実態を無視した、評論家的な見解である。
党員の学習シリーズだといいながら、これをいくら読んでも社会党の労働者党員が、社会党支持を労働組合で主張する理論はえられない。
党は、いかにして大衆の経済的な行動を政治的行動に高め、また政治的行動に近い経済的基礎を与え、より多数の大衆を闘争に参加させることができるかについて、血のにじむ努力を行わなければならない。
一、政策転換闘争を、抵抗闘争の基礎の上にすすめるべきであるという方針は正しいものであるが、三池から日炭高松にいたる連続したストライキのなかで、党はいかなる指導性を発揮したのか。
三池闘争の最中でも、あるいはそれ以後の炭労の各山での闘いのなかで、党は炭労の党員にたいして、政転闘争に発展させるべき行動上の指令を一度も発したことがなかった。
それにもかかわらず、炭労が百日ストの苦悩のなかからうみだした政転闘争を故意に構造改革論とむすびつけ、運動方針案では「もし、炭労が、あの抵抗闘争のエネルギーの高揚している段階で、政転闘争と結合しておったならば、運動はもっと高揚をみせたに違いない」などというような論評を加えている態度は、直ちに改めなければならない。
炭労が苦心に苦心をかさねてもそれができなかった当時の事情にもとづいて、党は党として、政転闘争との結合ができなかった主体的条件の欠陥に自己批判の目をむけなければ、党の指導性が一体どこにあるのかうたがわれる。
一、党の構造改革の理論的指導は、共産党をはなれた佐藤昇氏らが行っているが、その思想は、統一戦線政府による社会主義権力への移行という戦略方針にたっている。ところが、佐藤氏らもこの構想がいまの社会党のなかでうけいれられないことを知っているためこの面を明らかにせず、もっぱら独占資本の生産関係に介入するという構想をふりまいているため、反共主義者の歓迎をうけているのが現状だ。
社会党大会は何としてもこのような理論的混乱を克服しなければならぬ。」
構造改革論にたいする協会の批判の基調は、現在にいたるまでこのときとかわりはない。ただ、この後、雑誌社会主義において、構造改革論の理論体系の結び目の一つ一つについて、いかにそれがマルクス主義=科学的社会主義とは縁もゆかりもないものであるかを論証し、その改良主義的本質を一そう詳細にバクロする努力が、向坂代表を中心につづけられた。また、構造改革推進論者がこのんで労組の合理化反対闘争の戦術と、構造改革路線とを故意に結びつけ、労組の組織力の整備と充実をぬきにして政策の転換や労働プランが実現するかのような空論を転換することにたいして、太田薫氏を中心に、批判と警告をつづけてきた。
社会党の一月の定期大会では、構造改革賂線を「今日の段階において、戦略路線として直ちに党の基本方針としてはならない。」という東京都連提出の修正案が、圧倒的多数の賛成をえて、採択された。これは、社会主義協会の発した警告が、社会党の心ある人々に影響を与え、それが一半の力になったものと考えていい。
しかし、社会党員の理論的な水準は、構造改革路線が党の戦略路線でなくなったということの意味を十分につかみとることができなかった。また労働組合のなかでも、貿易自由化を目前にひかえた独占のはげしい合理化攻撃のなかで、これと正面から立向うことにとまどいする傾向があらわれた。党や労組のこのような状況に便乗して、党の有力幹部のなかには、構造改革路線が党の基本方針であるかのような発言をなす人々があった、ジャーナリズムは、もちろん、それ等の発言を歓迎し、社会党は「大人になりつつある」とおだてた。
「月刊社会党」や「社会新報」は、党の機関誌(紙)であるにもかかわらず、構造改革論を宣伝する場となりはてた観が強い、特に「社会新報」の「論壇時評」には、社会主義協会にたいし悪口雑言をすることを目的として編集されているとしか思えない内容のものである。
共産党から脱落したいわゆる春日派は、その後、春日庄次郎を中心とする少数派と内藤知周を中心とする多数派とに分裂したが、前者をとりまく佐藤昇などの評論家グループは、社会党内の構造改革推進論者と結び、最近では社会党に入党しつつある。これらの人々は、社会党における協会の理論的な影響力の排除をめざし「国民的社会主義」の理論的裏づけにうき身をやつすと共に、協会とマルクス主義にたいする一知半解のデマゴギーをふりまいている。
われわれが社会党大会で、戦略としての構造改革論が葬り去られた後も、少しも手心を加えることなく、一貫して構造改革論による社会主義運動の右傾化の危険を指摘し、さらに協会組織力拡大と整備にとりくんで来た理由は、ここにある。
(三)平和革命討議など
一月の社会党定期大会の直後に、協会運営委員会では、今後の組織活動の方針を決定し、その一環として、平和革命に関する討議を組織をあげて行うことを決定した。
平和革命の討議は、昭和二九年一日、日本社会党(左派)の大会で決定され、翌年十月の左右合同大会で廃棄された「左社綱領」の基調をふまえつつ、其後の独占資本主義の進展を具体的にとらえ、平和革命への道すじを一層明らかにすると共に、平和革命の展望と日常闘争との関連をうきぼりにすることを目的とした。
討議は、一月から六月はじめに至る問に、大よそ二〇日に一回の割合で運営委員会で継続された。
討議の課程(ママ)で、「討議のプログラム」がまとめられ、これは協会の支局、支部にも発送された。福岡や静岡等の支部では、このプログラムにそって討議が行われた。
討議プログラムの内容は、(一)資本主義の現状(内外情勢)(二)社会主義革命(三)日常闘争の三つの柱を中心とするものであるが、参院選挙や七、八月の労組関係の大会シーズン等によって、起草小委員会の打合せがおくれ、ようやく九月十五日に第一回をもった。当初の予定であった九〜十月段階での成文化という予定は、大幅に延期せざるをえなくなった。
第四回総会直前に、漸くそのレジュメを支局、支部に配布する予定であり、総会では、問題点の整理を中心とする中問報告の段階にとどまるをえない状況である。
討議のおくれた点については、協会本部の事務局体制の弱さを卒直に認めなければならないが。今後、起草小委員会における成文化とあわせて、協会全体がその討議にとりくみ、そのなかで協会員の思想統一をかちとっていくことが重要である。
一月の運営委では、社会主義運動の原則にたって、労働組合の日常闘争をどのように展開すべきかを明らかにし、あわせて、各単産本部にいる協会員及び協会支持者の意志の統一をはかるため、労働運動研究会の設置をきめた。
この研究会は現在までに四回開催され、中央単産の大多数のところから参加者をあつめ、労働運動の当面する諸問題(総評の国際路線、反合理化闘争、総評運動方針等)に関して討議が行われたが、討議の進展はまだ十分でなく、とくに討議以前の資料や問題点の整備が十分であった(ママ)。
したがってまた、この研究会の討議を基礎に、協会の各支部に送付して、討議をまきおこしていくための資料の整備も、なされないままに終った。協会本部の事務局体制の弱さが、ここにも露呈していることを卒直に指摘したい。
第三回総会で規約化された各部会(日本経済部会、賃金部会、合理化部会、国際部会、農業部会、組織部会)については、昨年十二月の段階で農業部会、合理化部会が発足したことにより、すべての部会が発足し、それぞれ責任者をきめ、当面の研究テーマを決定した。その内容は、雑誌社会主義の本年二月、三月号に発表されたとおりである。
しかし、日本経済部会、国際部会等を除けば、共同討議はあまり活溌でなく、部会によっては、会合の数もきわめて少なかった。
これは、協会全体の日常活動を指導し、或は集約する機能を、運営委員会では十分に行いえないため、各部会との連繋が殆んど行われず、協会活動のなかでの部会の任務が具体的に明らかにされなかったことによるものである。雑誌社会主義の編集との関係においても、計画的な打合せが十分ではなかったが、日本経済部会、国際部会、賃金部会等が、雑誌の内容を豊かにし、当面する諸問題の解明に力をつくした点は、十分評価されなければならない。
(四)協会組織の拡大と今後の課題
第三回全国総会で発足した協会組織部の主要な努力は、殆んど全国各地における。協会の結成に集中された。協会の運動を真に組織的なものとするためにも、更には運動体に不可欠の財政的な基盤を拡大するためにも、そこに努力を集中する必要があったからである。
組織の結成は、第三回総会の当面の基本方針と規約にもとづき、再登録を実施するという方法をとった。
すなわち、総会後に、第三回総会決定集を、協会員、支持者雑誌取扱者を中心に配布し、十一月から専任の組織部員をおき、各地同志との連絡を開始した。
一月以降、組織部長が専従し、全国オルグが開始された。
この全国オルグの旅費、給料をはじめ、組織部の一切の予算は、東京在住の一二六名の定期カンパ、全国の同志の一時カンパを中心としこれに社会党国会議員の有志のカンパを加えてまかなわれた。本年八月までに、当初の一〇〇万円の目標を一〇万以上突破する額が集められた。(以下略)