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「社会主義」の十年 2
7 問題の多かった年
 こうして加藤長雄が退いたあと、編集発行などの事務は岡崎三郎が担当することになった。そして事務の上には何の支障もなかった。しかし高野が社会主義協会と絶縁したことから生ずるかもしれない影響については大いに憂慮された。高野に対する批判は、左派社会党の中にきわめて強く、また総評の内部にも起こっていたが、総評の事務局長である高野の影響力はなお非常に大きく、しかも高野は協会と絶縁の後まもなく、「国民」と題する月刊雑誌を始めたからである。しかし「社会主義」にとっての影響は案外にもほとんどなく、読者数などもほとんど変わらなかった。他方「国民」はいっこうに発展せず、一年たつかたたないうちに消えてなくなってしまった。
 一九五四年三月の合化労連の臨時大会では、公然と高野の指導方針に対する批判が採択され、他の単産にもこれに共鳴するものが少なくなかった。同年七月一二日から開かれた総評の第五回大会では、事務局長について高野と太田との間に決選がおこなわれ、高野が多数をとったものの、太田派の勢力もそうとうに大きいことが示された。なおこの大会中の四日間、社会主義協会は大会速報を連日発行して、高野派の言動を批判した。
こういう情勢を反映して、「社会主義」は労働組合の中に、太田派の勢力の伸張と呼応して、伸びて行くことができた。
 ところでこの間になお新しい問題が生じてきた。さらに述べたように、この一九五四年一月の大会で左派社会党は綱領を決定した。この大会ではまた山川均を社会主義連動の大功労者として表彰した。以後「社会主義」はこの綱領の内容をくりかえしくりかえし解説し、同時に右派や労農・共産両党の構想の誤りを明らかにした。そしてこの綱領にもとづき左派社会党が真実の社会主義政党として強化発展するように努めた。
 しかしこの大会後まだいくらもたたないうちに、左派社会党の幹部から、この綱領を無視して右派との合同をはかろうとするかのようなことばか聞かれた。「社会主義」はしばしばこの問題を取り上げ、その危険性について警告した。これに対し左派社会党の幹部は、無条件合同はしないと言明しながらも、一歩一歩無条件合同の準備を進めて行った。この年一一月には「両社共同政権樹立の共同声明」が発表され、また両社共同政権の新政策大綱が発表された。
 一二月にはいると、七日に吉田内閣が総辞職し、一〇日に鳩山内閣が成立して、総選挙の近いことが予想されたが、一三日、両社統一促進委員会は総選挙後の合同を申し合わせるにいたった。
この年四月には全労会議が結成され、労働戦線ははっきり二分されたのに対し、政党のほうは逆に合同をいそぐ形になった。ともに「社会主義」の主張とは相反する動きであった。
  8 両派社会党の合同に対して
 さて一九五五年一月一八日には、かねて打ち合わせてあったとおり、左右社会党がそれぞれ臨時大会を開き、ともに統一実現を決議した。
 次いで二四日衆議院解散、二月二七日総選挙となったが、その間二月二一日、かねて病床にあった稲村順三が死んだ。稲村は左派社会党幹部の中で社会主義協会に対し最もよい協力者であった。
 総選挙の結果は、民主党が第二党となり、まもなく第二次鳩山内閣の成立となるが、左派社会党はここで八九議席を占め、右派を大きく引き離した(右派六七、労農四、共産二)。しかし両派の合同はさらに推し進められ、合同のための新しい綱領の起草が始まった。起草委員は、左派は伊藤好道と佐多忠隆、右派は曾称益と河野密で、両派の妥協のもとに新しい綱領草案は九月上旬に完成し、両派の執行部はともにこれを承認した。左派においては、合同について当初は慎重論もあったが、ここにいたって執行委員会では新綱領について一人の反対者もなかった。そして九月一九日の左派の大会で、合同に関する他の議案とともに、この新しい綱領も大多数をもって承認された。稲村を委員長とする綱領委員会が起草したもとの綱領は、わずかに一年八か月の命をもって葬り去られた。こうして左右の合同は一〇月一三日の大会で宣言された。ついでに言っておけば、一一月一五日には民主党と自由党の合同により民主自由党が結成された。
 ところでこの間、左派の九月大会直前に新しい妥協綱領の全文が発表された時、岡崎、向坂、山川は直ちに分担してこれに対する批判文を書き、「社会主義」の臨時号に掲載した。臨時号は大会開会日の前夜にできあがり、開会日の朝、会場で発売された。綱領の提案説明者であった伊藤好道は激怒し、演壇上でこの臨時号を罵倒した。しかし罵倒する以外に反批判を試みることはできなかった。
 とにかく、こういう経過があって、社会主義協会と社会党の幹部との間の親近感は失われた。協会としては、社会党を真実の社会主義政党として再建し強化することこそ以後の協会の任務であると考え、「社会主義」の読者網を基礎に、各地に支部を設け、組織的な活動を進めることにした。これは主として山川と向坂の提唱により、合同大会の直後に着手された。
 この間、総評では七月の第六回大会で、決選の結果、高野が事務局長の地位を退き、岩井章がこれに代わった。これにさきだち、この年の春には太田の指導のもとに賃銀引き上げの八単産共闘が組織された。協会は共闘と提携して、四月、日経連に対する「賃銀ストップ論批判」を「社会主義」の臨時増刊として発行した。労働組合に対する協会の影響力は増大しつつあった。
   9 創刊五周年
 社会主義協会は、左右社会党の合同後、全国に読者サークルを、さらに支部をつくる方針を決めたが、このころになると中央にも地方にも協会の支持者、協力者はそうとうにふえ、この仕事も割合に順調に進んだ。また「社会主義」の編集会議も、この少し前から若い世代の人たちがたくさん参加して開かれるようになり、創刊当時とはかなり顔ぶれが変わってきていた。そして一九五六年六月には創刊五週年を迎えた。
 こういう事情の中で、この年八月二九、三〇日、協会創立以来はじめて全国の支部代表者の集会を神奈川県湯河原で開東北地方から鹿児島県にいたる全国の代表者が参集し、山川、向坂、高橋、芹沢、相原らも出席して、協会のあり方について議論した。
 これよりさき、この年四月、協会では協会の今後の任務に ついて討議したが、客観情勢は創立当時と基本的には変わらず、協会の任務と努力の目標もまた基本的には変わらないとして、具体的には次の四点に力をいれることにした。
 「一 労働組合運動の方面では、組織のそとに取り残されている広範な労働者大衆の間に組織を拡大し、組合の組織形態を整備し、戦線の統一によって全国的組織を確立し強化する努力に協力すること。
 「二 土地改革によって生じた農村の新しい条件に対応した農民の運動の推進に協力すること。
 「三 あらゆる社会分野と職域にある進んだ要素を社会主義政党に結集し、大衆の生活に根ざした党組織を確立すると同時に、社会主義政党の意識的理論的水準を高めるさまざまの努力を助けること。
 「四実践運動のあらゆる分野において以上のような目標のためにたたかっている活動分子に、その活動に必要な理論と実際問題についての研究を助け資料を供給することによって、自信を与え、確信をもって行動しうるように協力すること」
 なお協会と他の団体との関係については、こう規定した。
 「社会主義協会は労働者団体および社会主義的な諸団体に対しては積極的、建設的、協力的な立場をとるとともに、いずれの団体との間にも、協会の自主性を妨げるような特殊な関係をもたないものであります。また協会員は、各自の責任において自主的にそれらの団体にあって積極的に活動するものであって、各自の所属する政党、組合、またその他の団体員としての行動には、なんら協会の制約を受けないものであります。」
 この年一〇月号の「社会主義」は五周年記念号として、山川を中心とする「日本の社会主義」を特集した。一一月八日には東京で五周年記念の講演会を開いた。高橋義孝「芸術と民衆」、有沢広巳「原子力と社会主義」。
   10 山川均死去の前後
 以上、「社会主義」の一〇年のうち前半五年の経過を要約してみた。後半五年のことは人々の記憶になお新しいことであるから、ずっと簡単に述べておこう。
 一九五七年の初めに「月刊総評」が発刊され、夏には「月刊社会党」が出始めた。大きな組織を母体として発行される月刊誌であり、内容も多かれ少なかれ「社会主義」と競合しないわけにはいかないものであるから、独立採算の「社会主義」としては、ちょっとその影響を顧慮しないわけにはいかなかったが、幸いにしてと言うべきか、特に影響を受けるということもなかった。
 ところで、前年来、協会の支部を各地につくる仕事が進められてきたが、いちばん近い東京では、地域が広く事情が複雑であるために、それが容易に進まなかった。しかしようやくこの年一一月七日に東京社会主義研究会という名のもとに支部に近い形のものができて、その発会式をあげた。
 さて翌一八[ママ]五八年、この年三月二三日、山川均がなくなった。そして四月二日、社会党の党葬がおこなわれた。これまで「社会主義」の同人代表は創刊以来ずっと山川均と大内兵衛になっていたが、この葬儀の日、協議して以後は大内兵衛と向坂逸郎ということにした。なお「社会主義」ではややおくれて、この年一○月号を「山川均研究特集号」として出した。山川の死は協会にとって大きな損失であったが、協会に対する会員の支持協力にはその後も大きな変化はなかった。
 この年には年初以来、左右合同後心社会党をどのようにして真実の社会主義政党として強化発展させるかということが、協会の大きな課題として取り上げられた。このため一月号はこの問題について特集を試み、八月号では社会党の機構改革の問題を取り上げ、さらに一二月号では「日本社会党改革への道」を特集した。いずれも協会が年来主張してきた基本線を新しい事態に即して一段と推し進めたものであるが、「社会主義」の主張、中でも向坂の一連の論文は大きな反響を呼び、社会党の内外に新しい論議をまき起こした。この間共産党の党章草案が発表され、「社会主義」はこれに対しても批判を加え、社会主義運動のあるべき万向を明らかにすることに努めた。
 なおこの年の一一月三日、協会としては二回めの全国的集会を神奈川県箱根で開いた。そしてこれまで、あるがごとく、またなきがごとくであった規約を一応まとめた。そしてそれにしたがって運営委員会を設け、仕事の大綱はこの委員会で決めることとした。運営委員会はまた日常の業務のために幹事を選び、そのうち大内兵衛、向坂逸郎を代表幹事、岡崎三郎、木原実を常任幹事とすることにした。その他、活動の方針などについては、ほぼ創立以来の線に沿って進めることとし、特に新しいものはなかった。
   11 むすび
 さて、一九五九年六月二日に参議院の改選があった。その結果は社会党にとってあまりかんばしいものではなかった。そしてこれを契機として、党内各派それぞれに党の再建案というものを発表した。「社会主義」はこれら各派の案、とりわけ西尾派の構想を批判し、これまでもたびたび主張してきた社会主義政党としての社会党強化策を強調した。
 まもなく九月一日から、再建大会と称して、社会党の第二六回大会が開かれた。この大会では、西尾派に対する批判は、考え方についての論争によってではなく、西尾末広を統制委員会の審理に付託するという形でおこなわれた。大会は一六日をもっていったん閉会したが、まもなく西尾派と河上派の一半とは社会党から脱退し、翌一九六〇年一月二四日、民主社会党を結成した。他方、社会党は、残った河上派の脱退を防ぐため、この年三月二三日、臨時大会を開いて役員の改選をおこない、投票によって浅沼稲次郎を委員長に選んだ。
 この一九六〇年は、人々の記憶になお新しいように、安保闘争と三池闘争の年であった。民社党の分離は、社会党がこれらの闘争と取り組む上での障害をあらかじめ除去したことになった。しかし民社党は安保闘争に水をさそうとしたり、三池をはじめ、たたかう労働組合の中に、資本と結托して分裂工作を進めたりして、その本質をあますところなく暴露した。その結果は、一九六一年二月の総選挙における惨敗であった。「社会主義」はこのような民社党の言動に対して絶えず批判を加えた。なお社会主義協会の会員には、社会党や主要な労働組合の中で重要な役目を受け持っているものが多く、ことに三池労組の中にはそれが最も多く、これらの人々はこの大闘争の中でそれぞれの組織においてきわめて重要な役割を演じた。
 これらのことは、歴史というより今日の問題であり、また今後につながる問題であるので、本稿ではただ簡単に言及しておくにとどめる。とにかくこうして「社会主義」は一〇年の歴史を経てきた。こういう種類の雑誌としては東西古今に例のないことだと思う。しかもこの一〇年間、一時的に有志の少額の寄付を受けたことはあるが、基本的には独立採算で続いてきた。もっとも原稿料を支払っていないし、これを勘定外としての独立採算なのだが、それにしてもやはり例のないことだと思う。
 しかし発行部数は創刊以来ほとんどふえていない。新しい読者は毎月ふえる。しかし他方には(しばしば大部数)注文をして送らせておいて、いつまでたっても誌代を支払わない人がいる。社会主義連動と雑誌の発行は慈善事業ではないので、こういう読者は切り捨てる。このために読者の新陳代謝が常におこなわれている一方、全体の部数はいっこうにふえない。一〇年の歴史をこのようなことばで結ばなければならないことは、あまりうれしいことではないが、事実は事実である。(岡崎三郎)
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