「社会主義」の一〇年
*『社会主義』117号(1961年6・7月号)掲載。長文のため2ページに分けて掲載。 後半
1 創刊
「社会主義」の創刊号は一九五一年六月の発行である。ちょうど一○年前。
創刊の当初、同人として五〇名ばかりの人が名をつらねていたが、編集会議に恒常的に出ていたのは、山川均、向坂逸郎、高橋正雄、高野実、太田薫、清水慎三、岡崎三郎、加藤長雄らであった。ほかに出たり出なかったりした人は非常に多い。編集発行の事務は、加藤長雄が担当した。
「社会主義」の創刊より少し前に「前進」という雑誌があった。一九四七年七月に始まり、一九五〇年八月をもって終わった。「前進」の編集会議によく出ていたのは、山川均、荒畑寒村、向坂逸郎、高橋正雄、小堀甚二、板垣武男、岡崎三郎であった。このうち荒畑、小堀は「社会主義」には参加しなかった。板垣は「社会主義」の同人として名をつらねたが、編集会議にはほとんど出なかった。こういうところからもうかがわれるように、「社会主義」は一面では「前進」の
継承だと言っていいが、しかし全面的な継承ではなかった。
「前進」の編集と発行の事務的な方面はすべて板垣書店の手によっておこなわれていた。編集内容についても、板垣書店の意図にしたがっておこなわれていた部分が少なくなかった。そして一九五〇年八月号をもって終刊としたのは、板垣書店の経営のつごうによってであった。しかし経営がうまく行っていたとしても、「前進」はそのままの形で長く続くことはできなかったであろう。
一九五〇年の年頭、占領軍最高司令官マッカーサーはその声明で日本の自衛権を強調した。これを契機として再軍備の可否についての議論がしだいに高まった。六月に朝鮮戦争が始まるとともに、この問題は具体的な重要性をもってきた。同時に講和問題が日程に上り、全面講和か二面講和かの議論が沸き立ってきた。そしてこれは再軍備問題と不可分の関連をもっていた。
こういう情勢の中で、直接には、この再軍備の問題について、「前進」同人の中に意見の対立が生じた。おもに向坂と小堀との間で激しい議論がたたかわされた。問題が決定的に重要なものであっただけに、この対立を内包したままで「前進」を続けることは不可能であった。
一九五一年一月の社会党の大会と、三月の総評の大会とはともに、全面講和、中立堅持、軍事基地提供反対、再軍備反対の四原則を、右派の反対を押しきって採択した。この平和四原則の立場に立つ勢力の結集をはかるという意図を含んで「社会主義」は発足した。そして「社会主義」の創刊をもって社会主義協会が発足した。
2 「創刊のことば」から
創刊号巻頭所載「創刊のことば」から。
「……今日わが国の支配者層の構想しているような講和が成立したならば、どのような日本が再現するかはあまりにも明瞭で、われわれは講和を転機として本格的な反動時代が来ることを覚悟しなければなりません。
「……
「では、われわれが来たるべき反動期を乗りきるためには何をなすべきでしょうか。それは、今日も二〇年前と同じように、基本的には労働階級の戦線の統一と社会主義勢力の結集ということ以外にはありません。ただ六〇〇万の労働階級が組織され、そしてこれらの組織労働者の多数によって支持される政治運動の組織が既に存在する今日は、この戦線統一の具体的な方法は、おのずから二〇年前と異なるものがなければなりません。すなわち
一 既存の労働組合の整理を伴いつつ組合運動の強力な全国的中心組織の確立を促進すること、
二 あらゆる分野と職域との進んだ要素を社会主義政党の組織に集結すること、
三 労働階級の組織と運動とを極左主義の破壊的影響から守るとともに、反動期の特徴として既にそのきざしの現われている右翼偏向と反階級的な勢力の動きとを克服して、階級意識を明確にし、民主主義的社会主義の方向を確立すること、でなければなりません。
「このような労働階級の諸運動にとってのさし迫った必要を満たすことは、組合および政党の内外を通じての民主主義的社会主義者の同志的協力なくしては望まれません。月刊雑誌『社会主義』の創刊は、そのような協力によって推し進められる事業の一つにほかならぬものであります。『社会主義』の主たる任務は、右に述べた基本的な方針の上に立ち、実践運動のあらゆる分野においてこのような目標のためにたたかっている活動分子に、その活動に必要な理論之実際問題の知識についての資料を供給することによって自信を与え、確信をもって行動しうるように協力することであります。
「したがって本誌の同人は、組合および政党の内外にわたる民主主義的社会主義者の集団でありますが、もとより政党政派の性質をもつものではありません。また『社会主義』は労働団体および社会主義的な政党に対しては積極的、建設的、協力的な立場をとるとともに、いずれの団体との問にも特殊な関係をもたないものであります。準備期開か限られていたために、便宜上、五〇名余の同人をもって発足しましたが、同人の門戸は広く開かれており、志を同じくする諸君の参加と協力を待つものであります。
「……諸君の積極的な御援助をお願いします。」
3 講和前後
この一九五一年二月からダレス方式による講和交渉は急速に推し進められ、九月八日にはサンフランシスコ両条約が調印された。
この間、社会党および総評内の右派は、年初のそれぞれの大会決定に反し、ダレス方式支持の方向に傾いた。
社会党の六月の中央委員会は左右の対立から結論を下すにいたらず、一〇月二三日に開かれた両条約賛否決定の大会で左右両派に分裂してしまった。
労働組合では、たとえば総同盟は三月、総評大会直後の解散大会で、右派は総評から脱退し、六月に「新」総同盟を結成した。また国鉄労組の六月の大会では、民同が分裂し、愛国労働運動を唱える右派はやがて新生民同をつくった。総同盟や新生民同の主張に賛成するものはなお総評の内にも外にもあった。
こういう情勢の申で「社会主義」は八月号に「労働者階級の講和テーゼ」を発表したが、それはもちろん平和四原則を基調とするものであった。
やがて両条約が調印され、社会党が分裂した時、社会主義協会は講和後の内外の情勢と労働者階級の運動の方向を検討し、一つの試案にまとめ、「講和後の新情勢と労働階級」と題して「社会主義」一一月号に発表した。これは協調主義者たちの考え方に対する批判であるとともに、また両条約調印の直前に決定された共産党のいわゆる五一年綱領に対する批判でもあった。かなり長文のものであるが、決定的に重要な一点のみを次に引用しておく。
「二二 講和後の日本を支配する勢力は、独占資本を頂点とする資本主義の階級的勢力であって、この勢力はアメリカ資本主義への依存関係によって支柱を与えられている。それゆえに講和後の日本における労働階級の政治闘争の対象は、独占資本を指導力としアメリカ資本主義によって経済的にも精神的にも支持されるところの独占資本主義政治勢力である。したがつてこの闘争の本質は階級の闘争であり、したがって社会主義の方向をさすところの闘争である。」
なおこの項には次の注がついている。
「……日本共産党の新綱領は、日本を支配するものは永久化されたアメリカ占領制度であって、『吉田政府はアメリカ占領制度の精神的政治的支柱である』という〔われわれとは〕正反対の見解をとっている。そしてこの見解から当然に、労働階級の政治闘争の主たる対象はアメリカ帝国主義であると規定し、したがってこの闘争の本質は階級の闘争ではなくて民族の闘争であり、この闘争の発展は民族解放革命であると規定している。またこの見解にもとづいて、日共新綱領は、いっさいの社会主義的な要求(金融機関、主要産業、土地などの国有)を綱領から削除することを主張している。」
サンフランシスコ両条約は一九五二年四月に発効することになる。
4 順調な進展
一九五二年という年は占領解除後最初の年で、久しぶりに労働組合の激しい闘争が展開されたが、これと呼応して「社会主義」はまずまず順調に進んで行った。
前年から問題になっていた治安立法が破防法案という形をとって現われ、四月一七日に国会に上程され、七月四日に国会を通過した。これに反対する総評・労闘の統一ストライキが、四月二一日、一八日、六月七日、一七日、二〇日と計五回にわたっておこなわれた。
第一波の前夜、総評の議長であり、炭労の委員長であった武藤武雄は、労相吉武の法案修正の声明に動かされ、炭労はにわかに第一波に参加することを中止した。二三日、炭労の臨時大会は中闘不信任を決定し、武藤は失脚した。武藤は「社会主義」創刊以来同人として名をつらねていたが、実質的には特に深い関係があったわけではなく、かれの失脚は協会にはなんの影響も及ぼさなかった。
またこの闘争の間、五月一日のメィディの後、皇居前広場でデモ隊と警官隊との大衝突が起きた。この直後、「社会主義」の号外として「メーデー事件の真相」と題する小冊子が刊行された。この小冊子の編集発行について多くの同人が相談を受けることなく、またその内容が事件に対してあまりに無批判であるとして、後に同人間で問題になったが、しかし当時は破防法反対闘争の進行中であり、ことなくすぎた。
破防法反対闘争が一段落した後、七月二二日から開かれた総評の第三回大会は「賃銀綱領」を採択した。その草案はこの年二月に既に発表され、多くの組合に認められていた。この「綱領」の考えに沿って、電産と炭労が大幅な賃銀引き上げの要求を掲げて闘争にはいり、電産は九月から、炭労は一〇月から、それぞれ数次にわたる波状ストを決行した。闘争はしだいに激しさを増し、一二月上旬にいたって頂点に達したが、中下旬にいたってようやく終結した。
この大争議の間、八月末に衆議院が解散され、一〇月一日に占領解除後最初の総選挙がおこなわれた。その結果、自由党がやはり過半数を占め、まもなく第四次吉田内閣が成立したが、しかし左派社会党は著しく議席を増した。前年一〇月、社会党が分裂した時、左派に属する衆議院議員はわずかに一六名にすぎなかった(右派は二九名)。しかしこの一〇月総選挙では一躍して五四名になった(右派は五七名、労農党四名、共産党○)。この左派社会党の躍進は、再軍備反対を中心スローガンとすることによって、また総評の強力な支持のもとに、かちえられたものであった。
この選挙の直後に早くも両派の合同を唱える声があった。しかし「社会主義」は無原則合同を排し、左派社会党と総評が従来の基本線を守って組織の強化発展をはかることを主張し、同人間に異論はなかった(同年一一月号参照)。
5 高野実の方向転換
たったいま同人間に意見の相違はなかったと述べたが、それから二か月を経て一九五三年にはいるやいなや、意見の対立が現われてきた。それは主として高野の意見の変化にもとづくものであった。
高野は一九五一年三月の第二回大会以来、総評の事務局長であった。また左派社会党の党員であった。そして左派社会党の代表者の一人として、一九五三年一月六日にビルマのラングーンで開かれたアジア社会党会議に出席した。それからまもなく一月一二日に左派社会党の定期大会が開かれた。この大会では中立主義が強調され、その背景として第三勢力論と言われる見解が打ち出された。いろいろ解釈の差異はあったが、だいたい大まかなところでこれが左派の公式の見解として認められた。これが高野には気に食わなかった。
三月一四日に衆議院が解散され、四月一九日に総選挙があった。続いて二四日には参議院の改選がおこなわれた。この間に高野は「平和国民の統一戦線」と称して、改進党から共産党にいたるまでの共同戦線を提唱し、左派社会党一本支持の考えを排撃した。
総選挙の結果はやはり自由党が第一党となったが、今度は分裂のため過半数を占めるにいたらなかった。左派社会党は当選七二名と、前年よりさらに議席をふやし、右派を追い越した「右派六六、労農五、共産一)。総選挙後の首班選挙に際し、高野は、吉田内閣の再現を阻止し、弱体内閣をつくらせるという戦術から改進党の「重光首班論」を唱えた。左派社会党はこの主張を排し、委員長鈴木を推し、吉田と重光の決選では白票を投じた(労農、共産は重光)。こうして五月一一日に第五次吉田内閣が成立した。
七月八日から総評の第四回大会が開かれたが、この大会に提出された運動方針には、高野の構想にもとづき、左派社会党の第三勢力論に対抗する、平和勢力論なる見解が打ち出された。これはきわめてあいまいな点の多い見解であって、従来の中立主義を放棄するもののように見えた。この点について、前年の大会以来総評の副議長であった太田と高野との間に議論がたたかわされ、太田は予定されていた再度の副議長立候補を取りやめた。この問題に限らず、労働運動の進め方全体について、この前後にはもはや高野と太田との見解は著しく相違していた。ただこの年二月、総評内の海員、全繊維などが総同盟と結んで民労連を結成し、総評分裂工作を進めていたので、高野と太田の対立もかなりの程度に抑制されていた。
以上のような統一戦線論、重光首班論、平和勢力論などはすべて高野独自の新しい主張であって、もちろん社会主義協会の統一された見解ではなく、前述の太田はもとより、山川、向坂、高橋、その他はむしろ全面的に反対であった。
6 高野の脱退
ところで、この一九五三年一月の大会で左派社会党は綱領を作成することを決定し、綱領委員会を設けたが、その委員長には稲村順三が選ばれた。左派社会党の指導者の多くは、「社会主義」創刊以来の同人であったが、中でも稲村は最も積極的な協力者の一人であった。また綱領委員には党の役員以外に、社会主義協会の同人中指導的な役割をはたしていた向坂、高橋、清水が選ばれた。
綱領委員会は数次の討議を重ねて、この年一一月に基本的部分の草案を完成し、同月八日、委員会案として発表した。この草案は中央執行委員会でもそのまま採択され、翌一九五四年一月の定期大会に提出された。大会は二、三の字句を修正したが、基本的な部分は全く原案のまま、大多数の賛成をもってこれを決定した。
この綱領は、一言一句の末にいたるまでとは言われないが、しかし構想の基本線においては向坂、高橋の、したがってまた山川の従来の見解によって貫かれたものであった。ところで、この草案が綱領委貝会で一応まとまった時、委員の一人清水は草案の基本構想に反対し、独自の草案、いわゆる清水私案を作製して委員会に提出した。その骨子は、講和後の日本をアメリカの植民地的従属国であると規定し、当面の闘争の基調を民族闘争におくべきことを強調するものであった。これはこれまでも山川、向坂、高橋が極力排撃してきた見解であった。清水私案は委員会で否決され、清水は委員を辞任した。
さてこういう問題のあった一一月上旬、「社会主義」一二月号の編集会議で、この綱領草案の全文を誌上に掲載することに決定したが、その際、高野は清水私案をもあわせて掲載することを主張し、向坂はこれに反対した。激論の後、これは両方を載せることになった。しかし協会内の対立はおおいがたいものとなった。
ちょうどこのころ、編集発行の事務担当者であった加藤長雄を退職させたいという要求が、山川、向坂、高橋らから出ていた。それは、加藤が編集会議の決定を、また編集会議そのものを無視して事をおこなうことがしばしばあったという理由からであった。高野はこれに対して、加藤をやめさせることに強硬に反対した。
この問題について結論を下すため、一二月七日、藤沢の山川宅に高野、清水、太田、高橋、岡崎、その他二名が参集し(向坂欠席)、論議したが、山川、高橋はきわめて強硬で、一歩も譲らなかった。そこで高野は「どうしても加藤君をやめさせるとおっしゃるなら、わたくしも本日限り社会主義協会から引きましょう」と言った。山川は即座に「それは残念ですが、いたし方ありません」と答え、結論はついた。清水は、事態がこうなっては自分だけとどまるわけにはいかないということで、やはり脱退することになった。