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連続学習会「いま《山川菊栄》を読む」A 後半
●廃娼運動の評価をめぐって

 これらを経ての廃娼運動の評価ということについて話したいと思います。
 廃娼運動に関して戦後の女性史研究のなかでは、どう扱われたか。井上清の『日本女性史』(三一書房、初版一九四九年)は廃娼運動には全然触れていませんし、高群逸枝の『女性の歴史』(上下、講談社文庫、一九七二年)ではほとんど評価していません。七〇年代の村上信彦の『明治女性史』(上中下、理論社、一八六七―七二年)になって、廃娼運動こそ女の最大の人権闘争であると、高い評価が与えられたわけです。村上氏は、生活史を掘り起こすというスタンスで女性史研究に非常に強い影響を与え、各地の廃娼運動も掘り起こされていきました。
 一九九七年に藤目ゆきさんの『性の歴史学』(不二出版)が現われ、山川菊栄記念婦人問題研究奨励金を受けられました。その内容は廃娼運動のほぼ全面否定と言ってもいいと思います。日本の公娼制度は封建時代からの名残で日本独特のものと言われてきましたが、欧米にも公娼制度はあり、欧米を視察して「近代的に再編したものだ」というのです。また「村上の研究は明治以来の日本の廃娼運動家たちのものの見方と価値観を踏襲したものであり、その内容において重大な誤認と偏見がある」がゆえに『性の歴史学』は彼への反論だとも言っています。
 明治期以来の救世軍とか矯風会などの自由廃業運動は「進歩的意義が存在するとはいえ、それは売淫の廃止や娼婦の真の救いも、女の真の解放ももたらさなかった」というふうに断定しています。それらの運動が階級支配とか植民地支配を無視している点を批判しているわけです。

 それから、「娼婦とは自分の意思で就く職業であるはずがなく、救済されるべき奴隷」という見方が「醜業婦」という呼び方に表われていると言います。「廃娼運動の大目的は、売春関係者の公許を廃し犯罪者化することで国家の体面をつくろうとともに、売春を罪悪とし娼婦を賤視する社会倫理を普及することであった」ということです。そして「第一次大戦以降も廃娼勢力は近隣アジア諸国を侵略し十五年戦争に突入していく大日本帝国の進路を支持し続けた」と全面否定しているわけです。
 山川菊栄の廃娼論にたいしても「その内容は何も新しいものではない」と切った上で「実質的に日本廃娼運動を擁護した論議が伊藤〔野枝〕のつたない議論を圧倒した。それは『新しい女たち』が無批判に廃娼運動団体と連携し、廃娼運動のイニシアチブを既成廃娼運動勢力にゆだねていく起点をなした。ほかならぬ社会主義女性解放理論家の山川の既成の廃娼運動に対する実質的な同調は、市民的女性運動のみならず、右派、中間派無産女性運動の指導者たちの矯風会的廃娼運動への、無批判・イニシアチブ承認の伝統の始発となったのだった」と厳しく山川さんを糾弾しています。

 『日本女性運動資料集成』の8、9巻は廃娼運動がテーマで、鈴木裕子さんの解説は、基本的には藤目さんの議論と同じですが、ニュアンスは違います。婦人矯風会は東京や大阪でそういう女性たちのための更生施設を作ったわけで「『保護救済』の実践や実績を軽視することは不当であろう。それらは当時にあっては、まぎれもなく助力を必要とする『弱い』女性たちの『駆け込み』寺の役割を果たしてきた」と評価をしておられます。運動についても藤目さんよりは共感的な評価をしておられます。しかし「長い間、廃業の自由を事実上、閉ざされていた娼妓たちにとって支援者の助けは彼女たちを大いに勇気づけ、力づけたと言えるが、彼女たち自身に廃業の意思がなければ、この運動は成りたつわけがなかった。この点が従来の廃娼運動史ではとかく軽視されていたと言えよう」と、いわば「娼妓の自己決定」の評価に言及されておられます。
 最近の岩淵宏子さんの『「青鞜」を読む』(學藝書林、一九九八年)のなかの「セクシュアリティの政治学への挑戦」では、これまでの廃娼論争と藤目ゆきさんまでを加味しながら評論しています。藤目さんの論を踏襲しておられるのですが、山川菊栄の支持者が社会変革なしでは女性の性的解放は不可能としたとか、廃娼運動勢力のイニシアチブを承認したのが山川菊栄の評論だとかという批判は正しくないと否定しています。そして「当時の廃娼運動が皇室崇拝と娼婦賤視という理論矛盾を抱え持ちながらも、現実の公娼制度と身命を賭して対峙した実績が、おのずと運動のイニシアチブにつながったのではないかと思われる」と廃娼運動を評価しています。

 最後に矢島楫子にたいする評価を付け加えておきますと、樋口恵子さんが『婦人新報』創立一〇〇年記念誌(一九八六年)への寄稿で矢島楫子を取りあげています。矢島楫子は九二歳で亡くなりますが、晩年にいたるまで海外まで行って、平和運動の署名を米大統領に渡してくるとか、矯風会世界大会に参加するとか生涯を通して活動したことを、高齢社会と女の生き方というものに重ねて評価しておられます。
 一番新しい研究で、金子幸子さんの『近代日本女性論の系譜』(不二出版、一九九九年)に矢島楫子論があります。女性は仕事を持たなければいけないとか、当時としては先進的な考え方をもっていた点を評価しておられます。

 ごく簡単に紹介しましたが、過去の運動の評価はとても難しい。歴史的な制約とか限界があったと思うのです。
 私は「従軍慰安婦」問題等に関しては大筋において藤目さんの論理は否定しません。しかし一〇〇年というパースペクティブで矯風会の運動を見ると、「娼婦の賤視」ということに関しては、廃娼運動家たちだけを責めるわけにはいかない、それは当時の一般国民の意識でもあり、廃娼運動家たちがそれを反映したということではないでしょうか。ただ運動をリードしていく者の責任というのはあるかと思うのです。

 矯風会は八六年にアジア女性のための支援施設HELPを作りました。当時の女性運動のなかでは画期的なことで、現在のシェルター運動の先駆けとなりました。一〇〇年の歴史があってこそ可能だったと思うわけです。運動の積み重ねとともに、歴史のある団体が持っている財産、人材というのは無視できない。久布白落実の言葉に「運動と事業は車の両輪」というのがありますが、実際に保護救済施設を作ってきているわけです。そういう運動と事業の両立ということを創設時からやってきていることについては評価したいと思っています。矯風会は、「従軍慰安婦」問題のこともあるかと思いますが、戦争責任の謝罪を数年前に行なっています。
 村上女性史については独断偏見的な分析、そして情緒に流れる見方もあり、評価の基軸が一定でないと批判されています。私もそういうところは好きではありませんけれど、女性の経験の重視ということを女性史のなかで初めて文章化しました。ただ、現在のフェミニズムのいう女性の経験の重視は、その女性個人の経験が、多くの女性に共通したものであること、その経験を女性が生きやすい社会をつくるために生かしていくという視点がはっきりしているので、彼のそれとは違います。また、「買春」を女性史のなかで初めて取り上げた人です。女性を買うということが、いかに男性の女性観をゆがめているかというのをめんめんと述べているわけです。政治家の買春問題ということもちゃんと取り上げている。女性史のなかに「買春」という視点を位置づけたと考えます。

■質疑討論

井上 廃娼運動の評価がさまざまに変化してきて、とくに最近いろいろな議論があるところを紹介していただきました。
 『日本女性運動資料集成』を編まれた鈴木裕子さんからご意見や補足がありましたら、お話しください。

●廃娼運動の「醜業婦観」について

鈴木 まず事実関係からお話ししますと、全国公娼廃止期成同盟会というのは東京連合婦人会の運動のなかからでてきたものです。山川菊栄の自伝『おんな二代の記』に、公娼廃止期成同盟会に参加したこと、呼びかけ文「国民に訴ふ」を起草したことは書かれていましたので、その存在はわかっておりました。しかし、『山川菊栄集』編集の段階では、その所在はつかめていませんでした。『日本女性運動資料集成』第8巻に収録しました「国民に訴ふ」をお読みいただければ分かりますように、これは公娼廃止のための大同団結団体のアッピール文、闘争宣言として作られた、いわば会の宣伝文ですから、山川色が入っているにしても、多少薄められている点もあります。
 一九二三年九月一日の関東大震災では、多くの朝鮮人とともに日本の社会主義者も狙われ、殺害されました。山川さんは家がつぶれたために危うく難を逃れられたわけですが、伊藤野枝・大杉栄夫妻らのように殺されて簀巻きにされ、井戸に放り棄てられても不思議ではなかった状態にありました。そこで大衆運動のなかに入り、社会主義の方向性を探ったのではないかと思います。山川さんが東京連合婦人会やそれを母体として結成された全国公娼廃止期成同盟会に積極的に加わっていったのは、今、申し上げたような事情もあったと思います。それほど、当時の社会主義運動は「大衆」と遊離していたんですね。

 次に、伊藤野枝との廃娼論争についてですが、日本の廃娼運動を事実にそくして歴史的に検討した場合、わたくしは、藤目さんほど「過激」的な断定は下せませんし、凡庸な評価しかできないわけです。伊藤野枝さんが直観的に矯風会にたいし、たいへんな反感を示したいわゆる「賤業婦」観、これはなにも矯風会や救世軍などの廃娼運動家たちだけが特別に強く持っていたのではなく、当時の社会全体がそういう扱いをしていた。しかし、廃娼運動の担い手という、現実を切り拓くべき役割をもっていた運動家たちの「醜業婦」観は、やはり問題をはらんでおり、よくよく検討し直してみる必要があると思います。
 伊藤野枝にたいする山川菊栄の批判を、市民的廃娼運動への「屈伏」みたいな形で藤目さんは批判されていますが、ここは少し藤目さんの論は飛躍しすぎているのではなかろうかという気がします。

 山川さんは神戸に転居の後も、場を変えながらも運動は続けております。一九二三年に普通選挙法を求める運動が盛んになって、二五年に「男子普通選挙法」が成立いたしました。それを前にした三月に政治研究会婦人部ができ、無産系の女性たちがそこに結集しました。そのなかで、山川菊栄は政治研究会神戸支部に婦人部をつくり、無産政党運動のなかに、女性問題を盛り込むのに非常に努力しました。『山川菊栄評論集』(岩波文庫、一九九〇年)にも収めました「『婦人の特殊要求』について」(一九二五年一〇月『報知新聞』に連載)に出てきますように、八項目要求のなかに、公娼廃止の問題が触れられ、社会経済的視点からきっちりと位置づけております。
 では、日本の廃娼運動をどう評価するかというと、先程来からご指摘がありますように、わたくしは一定程度評価という立場でございます。もとより、日本の廃娼運動が「醜業婦」観をはじめ、植民地主義、帝国主義的立場からまったく抜けきれなかった点など、大日本帝国下の運動であったことは否めません。

 村上信彦さんのご著書は、わたくしも若いころたいへん夢中になって読んだものですが、氏の最後の本となりました『大正期の職業婦人』(ドメス出版、一九八三年)などをみても、村上女性史では芸妓や娼婦が視野に全く入っていない。そういう「仕事」は労働とは見なさないという村上さんの見方がはっきりと表現されています。村上女性史について、藤目さんは全面否定なさっていますが、その主眼は廃娼運動への彼の評価についてだったわけですね。
 さらに、付け加えなければならないのは、矯風会とナショナリズムとの関係です。矯風会の百年史(『日本キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版、一九八六年)を見ても、ナショナリズムの関連で矯風会の軌跡について全面的検証はまだなされていないと思います。

星川 公娼廃止期成同盟会はいつまで続いたのですか。

鈴木 あまり長続きしませんね。

星川 失敗して、吉原は再興してしまったわけでしょう。関東大震災のあとのいろんな運動がいっぱい起こったというなかでの遊廓廃止運動は無視できない。情熱をかき立てられたのだと思うのです。ですからことの性格上、神戸に移らないで運動を続けることが必要だったのではないでしょうか。ブルジョア廃娼運動と一緒にやったからおかしいということはないと思います。

鈴木 一緒にやったけれども、運動状況の変化のなかでまた分化してきたわけです。最初の時点ではともに協力して、吉原の再興を許さないということで、その一点に集中させようという認識を双方ともに有していたということです。
 話がまたもとに戻りますが、藤目さんの廃娼運動全面否定についてですが、彼女の突きつけた批判は、部分的には、わたくしたちも同感するところが大いにあったのです。しかし先程来、ゆのまえさんがくわしく紹介されたようにあそこまでは言えなかったのです。だからこそ、わたくしなどより一世代若い藤目さんの勇敢な問題提起はとても貴重だったのです。ただそれはあくまでも、一つの問題提起であって、これまでの論争の終わりではなくて、論争の始まりであると、一昨年の贈呈式の折の「推薦の言葉」で藤目さんにも申し上げたと記憶しております。

星川 「国民に訴ふ」の起草は、単なる評論家だったり、ただ鋭いということではなくて、実際にかかわっていったことの評価だと思う。考えは違うけれども一緒に行動したということにすごく意味がある。

●矯風会と菊栄では母性と性の認識が全く違う

林 性の二重規準を指摘したということで、すごく評価されているのですけれども、これが菊栄のオリジナリティと言えるのかどうか。つまり矯風会の人たちが廃娼運動のスローガンとして男女の平等という時、道徳標準の平等という言い方をしていると思うのです。矯風会みたいな廃娼運動を市民的な女性運動として、違うものとしていいものなのかどうか。廃娼運動について菊栄が言っている平等をという主張、とりわけセクシュアリティ論に関しては、矯風会で表立って言えないことを、しかし内容的に同じ意味合いのことを言っているとすれば、関東大震災後の東京連合婦人会のなかでの活動は、意外とは思わないのです。

ゆのまえ 矯風会の人たちとは、母性とか性のあり方の根本が違うと思います。矯風会の場合、良き結婚というものに収斂されていくのです。そのことが、国家のためにもいいことなんだというふうに、真っすぐにつながっている。

林 私の立場から言えば、国家の前に市町村、家という前に「自我」と言って、新しい女をかなり評価していると思います。国家が重要だと言っていても、その外側に「神のホーム」ということを言っているのです。そのへんの評価はどうなのでしょうか。

ゆのまえ 信仰者として「神のホーム」ということは、もちろん持っていると思います。だけど、運動として現われるときにはそれは出てこないでしょう?

林 『婦人新報』などを読んでいますと、「醜業婦」と言われている人たちに、自分たちが批判されていると思うのだったら、団体を作って自分たちの職業は悪くないということを示したらどうかという提案をしたりしているのです。

鈴木 山川菊栄と矯風会の根本的な違いは「売春問題」の基本をどうとらえるかです。山川さんは「富の懸隔」、つまり貧困問題を「売春問題」の根底に据えます。ところが矯風会はそこは見ないでおいて、モラルの問題としてのみ把握していくわけです。基本的な見方がぜんぜん違う。それから、矯風会には「貞操」至上主義的なところがございますけれども、山川菊栄は「貞操は、男子の女子に対する独占の希望から発した、女子の個性萎靡、本能抑圧の要求でありその拘束に冠した美名である」(「公私娼問題」一九一六年)とはっきり言っていますから、ここも根本的にずいぶん違うのではないでしょうか。

●イギリスの先進例を摂取する菊栄の資質

今井 私はまだ山川菊栄を勉強し始めて長くはないのですけれども、イギリス女性史関係の翻訳をしております。菊栄自身はホモセクシュアリティについては、発言していませんが、独身論というかたちでまとめています。その辺りを、ゆのまえさんがしきりに、その当時の、歴史状況を認識したうえでもさまざまなことを言うべきだとおっしゃっているのは、私もその点は同感です。だからといって、彼女を批判する気は毛頭ない。

 カーペンター以前にイギリスでは一九世紀半ばから性の問題が出てきて、道徳の二重規準についても長い論争があるわけです。山川菊栄は先見性があったのだけれども、その辺りにルーツがあるのではないかと思っているのです。セクシュアリティについてはカーペンターだし、ブルジョア女性運動つまりリベラリズムについてはウォルストンクラフトを批判していますし、婦人の特殊要求についてもイギリスで同様な動きがあって、彼女はかなりそれを勉強しているのです。これまでの菊栄研究者たちがそのへんをどういうふうにご理解なさっているのでしょうか。

井上 カーペンターが同性愛に言及している論文を山川さんが翻訳されているのでそのことについて浅野千恵さんがお話になる予定だったのですが、体調が悪くて来られず残念です。山川さん自身は直接語っていらっしゃいませんが、セクシュアリティの多様性ということについて、当時としては日本人のなかで非常に珍しく許容性を持った考え方を示しておられたと思います。
 生殖の問題等については、サンガー夫人、あるいはハブロック・エリスとか、欧米の文献を非常によく勉強していらっしゃいます。英語がよくお出来になったということで、翻訳もたくさんされています。例えばベーベルの婦人論も、英語版から彼女が最初に日本に全訳しているのです。そういう欧米の女性論をいち早く、また的確に吸収されて、それをご自分のなかで咀嚼して、ご自分の生活感覚を交えて、その時々の日本の情勢のなかで必要な議論を展開されていったのが山川さんだと思います。

●今後討論していくべき課題

加納 今井(けい)さんの話は非常に勉強になりましたが、私自身の山川菊栄にたいする認識で言いますと、欧米のさまざまな思想や理論をいち早く取り入れようとする彼女自身の資質のほうが大きいと思っています。誰の影響というより山川さん自身の知的産物だと思っています。
 話が変わりますが、山川さんに「現代生活と売春婦」という一九一六年の論文があります。私は何年か前にこれを見つけて「売春とか売春婦という言葉の創始者は山川菊栄である」と書いたことがあるのです。今回これを読んでみると、「売笑」とか「売淫」と使っていて「売春」とは出てこない。初出の段階では「公私娼問題」となっていたのでした。野枝との論争を見て、山川均が自分が出している『新社会』に原稿依頼して書いてもらったものです。単行本になった時にタイトルが変わっていたようです。

井上 そのへんの言葉の使い方の事情などはいかがですか。

ゆのまえ 私も変だとは思っていましたけど、解説を書いた不二出版の『買売春問題資料集成戦前編』(一九九七―九八年)にも「売春」ということばはありませんでした。

井上 矯風会でも使われたことがないのですか。

ゆのまえ 「売笑」というのもあるけれど多くは「売娼」です。

井上 今後調べる課題にしましょう。

駒野 日本婦人問題懇話会の古い会報に、今日ご欠席の菅谷さんが、沖縄復帰直前に視察されて「沖縄の売春問題」を書かれています。そのなかに、沖縄には売春の専業という感覚がない、沖縄の女は、男の一人ぐらい養わなければ女として恥ずかしいという風土があると書いてありました。セックスをどうとらえるかは、時代や場所によってずいぶん違う。江戸時代の吉原の花魁というのは、ある意味では女の代表みたいに思われるようなところがあった。沖縄にもそれがあり、そういう人は教養も高いし料理もうまいし、という感覚がその当時残っていたのです。そのへんも今日のセクシュアリティの問題に多少関係があるかと思ったりしています。

ゆのまえ 最後に藤目さんの著書については、小野沢あかねさんの評論が書評という形で『日本史研究』四三三号に掲載されており、参考になるので紹介します。廃娼運動の評価については現代の買売春問題の考え方にも関係しており、今後もいろいろな研究や議論がされる必要があるかと思います。

[パネリスト略歴]

井上 輝子 [いのうえ てるこ]

 一九四二年生。一九七四年以来、和光大学で女性学講座を開設・担当してきた。日本婦人問題懇話会・日本女性学会等会員。山川菊栄記念会世話人。主著に『女性学への招待』(有斐閣、一九九二年、新版一九九七年)など。

ゆのまえ 知子 [ゆのまえ ともこ]

 東京家政大学・中央大学非常勤講師(女性学)。現在は主としてドメスティック・バイオレンス(夫・恋人からの暴力)問題に携わる。共著『ドメスティック・バイオレンス』(有斐閣、一九九八年)、報告書『日本人女性を対象としたドメスティック・バイオレンスの実態調査』(財・横浜市女性協会、二〇〇〇年)ほか。