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党革新の前進のために
                                                                       
成田知巳(日本社会党書記長)

*社会党の組織欠陥として、日常活動の不足、議員党的体質、労組依存の三点を指摘したいわゆる成田三原則。初出は1964年1月1日付社会新報、ここでの出典は『月刊社会党』1979年6月号(No.273)特集・成田知巳前委員長追悼に再録されたもの。『資料日本社会党四十年史』などにも収録されている。     
 
 
 
●はじめに

 年頭に際し、全党の同士[ママ]諸君に心から新年の挨拶をおくるとともに、この機会に今後の党躍進のために昨年の総選挙で改めて露呈されたわが党の根強い体質的欠陥をどう克服するか、という問題について考えてみたい。

 昨年の総選挙は安保以後における池田内閣の政治路線の中心をなしてきた所得倍増政策の破綻があらわになり、それが消費者物価の急騰をはじめさまざまな形をとって、国民生活に対する重圧をつよめ、国民大衆の鋭い不満と反発をよびおこすという情勢のもとでたたかわれた。わが党は池田内閣のこの最大の弱点に攻撃を集中しつつ、かれらが故意に選挙の争点とすることを回避していた日韓交渉や原子力潜水艦の寄港、憲法改正等の諸問題をも国民の審判の前にひきだすことによって自民党に重大な後退をよぎなくさせ、この選挙をつうじてわが党単独で少なくとも総議席の三分の一を確保し、社会党政権への途を一歩をすすめるという決意の結果は、得票率、議席数ともに自民党の敗北におわったとはいえ、保守対革新の均衡を大きくゆるがすにはいたらず、とくにわが党は民社、共産の両党に比しても明らかにのび悩み、前回の選挙結果を一名下回る一四四議席を獲得しえたにすぎなかった。このことはわが党が自民党の政策に不安や不満をもつ多数の国民を決定的に自民党からひきはなすことができず、現に自民党を離れた層をも必ずしも党の側に結集しえなかったことを示している。このようにわが党が大幅な躍進を期待し、予想していた選挙において、現状維持にとどまったことは自民党とは別の意味で敗北であるといわなければならず、われわれはこの敗北を直視し、その原因を徹底的に糾明することを通じて党の次の躍進にそなえなければならない。

 ではこの敗北の根本原因は何か。それはほかならぬ選拳戦の経過自体のなかにあらわれている執行部の指導体制をもふくめた党の組織的、体質的欠陥のなかに求められるべきである。もちろん、これらの欠陥、弱点の多くは今回の選挙ではじめてあらわれたものではなくはやくから党の内外をつうじて指摘され、その克服の必要が強調されていたものである。しかし、今度の総選挙は、それらがわれわれの自覚していた以上に根深く、今や、その克服なしには党は一歩も前進しえないことを改めて教えたといってよい。本稿はこの教訓を同志諸君とともに確認し、これらの諸欠陥の方途をさぐろうとするものにほかならない。

●三つの体質的欠陥

 総選挙のなかにあらわれた党の体質的欠陥としては、言い古されたことではあるが、とくに次の三点を指摘しておきたい。第一は党の日常活動、大衆工作、大衆運動の組織とその独自的指導の決定的なよわさである。党は候補者を早期に決め、候補者を中心とする日常活動のつみ重ねのなかで選挙戦をむかえ、選挙をつうじて日常活動の成果をつみとるという方針を決定していたが、候補者全員が最終的に確定されたのは告示の十数日前にすぎず、党の方針は多くの地区で空文におわった。この日常活動の不足と結びついた選挙準備のたちおくれが選挙戦をきわめて不利にしたことはいうまでもない。今度の選挙で党は楽観ムードに支配されたといわれるが、この楽観ムードは不断の日常活動によって住民大衆を党の影響下に確保した結果として生まれたものではなく、むしろ日常活動の不足ないし欠如の結果である。日常活動の不足がいわゆる社会の構造変化による革新の自然増や、物価騰貴をはじめ所得倍増政策のひきおこした生活のひずみに対する国民の自然発生的な不満にもたれかかる、多分に安易な姿勢を生み出したのである。

 第二は党のいわゆる議員党的体質である。党の地域における日常活動の不足自体、この議員党的体質のあらわれであるが、それは候補者選定の経緯や選挙活動のスタイルにもあらわれている。一昨年の党大会では政権獲得をめざして二五一名の大量立候補者をたてることが決定されたが、今回の選挙では二百名を下回る候補者しかたてることができなかった。その大きな理由の一つが現職議員が現状維持を望んで新人の立候補をおさえた点にあることは否定できない。同時にこのことは、党の機関に議員のそうした保守主義を打破し、克服するだけの権威と統制力が欠けていたことを示している。また今回の選挙だけに限らないが、選挙活動が著しく候補者の個人選挙に傾き、党組織は候補者の個人選対に埋没し、党の基本政策の訴えが、保守党なみの“おねがいします” に席をゆずってしまう傾向がつよいことも党の議員党的体質と無関係ではない。このような活動方式では革新政党としての真の強味を発揮できないことはあまりにも明らかである。

 第三は依然たる労組依存−−より正確には労組機関への依存である。この労組依存とは必ずしも労働組合、組織労働者の力に依拠して選挙選をたたかうという意味ではなく、機関のしめつけによる票の割当に安住し、日常活動によって地域住民を組織する努力も、党の政策を訴えて新たな票田を開拓する努力も放棄し、労働組合をあたかも個人後援会のように見なす安易で保守的な活動方式のことである。この意味で日常活動の不足と議員党的活動スタイルと労組依存とは不可分の三位一体をなしているということができる。

●科学的な「党経営」

 こうした党の伝統的な体質的欠陥を克服するためには、あらゆる活動分野における総合的、系統的な党革新の努力が必要であるが、さし当りその中心的な課題として、私はとくに次の三点を指摘したいと思う。第一は党運営の根本的刷新である。党を企業体になぞらえるとすれば、それを零細、中小企業型の大福帳的経営から科学的合理性につらぬかれた効率の高い近代経営に転換することである。そのためにはまず党本部の活動態勢から改めてかからなければならない。この点で何よりもきびしく反省されなければならないのは私自身が最大の責任を負っている党の執行委員会のあり方であり、活動スタイルである。執行委員会はいわば党の“政府”であり、その指導機能の充実なしには党は司令部を欠いた軍隊のような状態におかれてしまう。だが、執行委員会は果してこの重責にふさわしい活動をしてきたであろうか。執行委員会には党組織の管理という機能と、議会活動をもふくめた政治活動=大衆運動の指導という機能があるが、そのいずれも十分に果されてきたとは言いがたい。執行委員の大部分が国会議員であるという制度的特質もあって、執行委員会の活動の大半は議会対策にむけられ、議会外の大衆運動の指導や党組織の管理には眼がむけられず、あるいは十分な力がそそがれることなく、前者は総評その他の大衆団体にまかされ、後者は本部書記局の手にゆだねられているといっても過言ではない。執行委員会自体が事実上、議会フラクション的な機能しか果しえないで、党の議会主義的体質の克服を叫んでも果して実効を期待しうるであろうか。私はこの機会にあえて党の執行委員会の性格、機能、責任、運営について真剣な検討を加えることを提唱したいと考える。

 では事実上、執行委員会にかわって党の日常的な執行に当っている書記局の現状はどうであろうか。すでに執行委員会が党管理の中枢機関としての機能を十分に果しえないでいる限り、書記態勢に規律と責任を欠いたルーズさが見られたとしても不思議ではない。その責任はむろん執行委員会や書記長が負うべきものであるが、書記局自体としてもこの際深刻に自省すべきものがあることは否定できないであろう。そこには真に革命党の本部に活動する者としてのきびしい自覚があったであろうか。むしろ管理の欠如に偸安する無気力、無活動が存在しえなかったであろうか。書記局を責めるという意味ではなく、わが党の革新のために今やこの点についてのきびしい自己点検が要請されているのである。

 現在、わが党は執行委員会、書記局の両者を通じて日常的な党務の執行における作風の改革−社会党としての一大整風運動の展開を必要としていると私は考える。

 この作風改革の第一点は無気力なマンネリズム、退嬰的な事なかれ主義を一掃してあらゆる活動分野において革新的なイニシアチブを発揮することである。今日ではブルジョア企業でさえ激しい競争に生き残り、勝ちぬくために経営全般にわたって不断の革新につとめ、経営効率の向上にしのぎを削っている。このとき企業競争とはくらべものにならぬ深刻な政治闘争をたたかいぬかなければならぬわが党に、とくにその中枢をなす本部の活動態勢のなかに、かりにも旧套になじみ、現状に甘んずるような消極的、退嬰的な作風が見られるとしたら、どうしてわれわれは保守を圧倒する力量を蓄積し、発揮することができるであろうか。社会党員の革命性は単なるイデオロギー的急進性ではかられるのではなく、日常不断の党務の執行に際して発揮される革新的イニシアチブによってはかられるのでなければならない。これは党員すべてについていえることであるが、とくに党役員をふくめた本部書記局員の責任は重大である。なぜなら、本部自体に清新な創造的作風が徹底していない限り、地方や下部の創意をうながすことも、それを汲みあげて全党のものにすることも不可能だからである。

 作風改革の第二点は責任と規律の明確化である。権限と責任を明らかにし、きびしい規律をつらぬくことなしに近代的な組織はなくしたがって機能的な分業にもとづく各人の能力の最大限の発揮もありえない。同志的な連帯ということがなれあいと混同されたり、各人の自主性の尊重ということが無規律と混同されるような事態は直ちに改められなければならない。

 作風改革の第三点は党務の遂行に当って厳重な点検と総括の慣行をうちたてることである。わが党には残念ながら政策や方針を決定してもその遂行過程での点検が不十分なために決定の完全な実行が保障されず、甚だしい場合には決定のし放しにおわってしまう場合も稀ではない。また事後の総括を厳密におこない、そこから教訓をひき出す慣行が確立されていないために同じ誤ちを何度もくり返したり、明白な欠陥が何時までも改められずにいるといった弊害をまねいている。この点検と総括は責任と規律の問題と不可分であって、抽象的に責任と規律の確立を説くよりも、一つ一つの仕事について不断に点検と総括をおこなってゆくことが規律をうちたて、責任を明らかにする途であろう。

●政策、機関紙、財政活動

 党運営の刷新にはこのような本部の執行態勢における作風改革とならんで、なおとりくむべき課題が多い。そのうち、とくに緊急を要すると考えられるものは、一つは党の政策立案能力の強化・充実である。政府自民党は膨大な調査機構を擁し、一流の知能を動員して計画をつくり、政策をたてている。これからの革新運動はこうした政府、与党との一種の“智恵くらべ”としての性格をますます強めてゆかざるをえない。

 国家独占資本主義の発展はブルジョア政府といえども無政府的な自由放任の経済にとどまることは許されなくなり、社会構造が近代化し、大衆デモクラシーが浸透するにつれて、保守、革新を問わず、民衆の支持をとりつける上で政策的イニシアチブのもつ意義が高まってゆくからである。

 われわれは政府・自民党の個々の政策に反対するだけでなく、それを説得的に批判しなければならず、さらに個々の政策の基礎にある政策体系全体を系統的に批判し、さらにすすんで、それにかわる国民的・革新的な政策路線を提起しえなければならない。

 今回の総選挙においてわが党は政府の物価政策を批判し、池田内閣に対する批判ムードを高めることに成功したが、この問題を全構造的な問題の一環として、日本経済の進路にかんする二つの路線、ビジョンの対決のなかでとり上げる点では、なお不十分であった。

 このような政策立案のためにはお座なりの作文でない真に科学的・実証的な現状分析が必要である。いま党がもっとも必要としているものの一つは、このような現状分析をおこなうとともにそれを政策―運動方針にまで具体化しうる能力である。われわれは自らそうした能力を身につけるための努力を強化すると同時に、党外の革新的知識人はもとより、「ブルジョア」機構の内部で働いている専門家の知能をも動員する態勢をととのえなければならない。

 このような政策立案能力の拡充は単に党の中央だけでたく、地方組織においても必要である。近年、自治体綱領等の作成活動をつうじて地方党機関の政策活動に刺激があたえられ、その政策立案能力は徐々に高められてきている。この傾向を一層助長するために意識的な努力が払われなければならない。

 党運営の刷新のために緊急なもう一つの問題は党の機関紙活動強化である。本来、党機関紙には二重の使命がある。一つは中央の決定を末端につたえ、下部の活動を中心に伝達することによって、全党の意志と活動を有機的に統一する媒体としての役割である。もう一つは、党外の国民大衆に党の政策をつたえる宣伝、啓蒙の武器としての役割である。この意味で機関紙誌こそ党の中枢神経であり、最大の組織者である。党の機関紙の有料化以来、その発展にはめざましいものがあり、その機能が日増しに充実しつつあることは大いに悦ばしいことである。だが、われわれは決して党の機関紙活動の現状に甘んずることはできない。それは第一に共産党がつとにアカハタの日刊化を実現していろのに対し、革新陣営の主力であるわが党が、依然として「週刊」にとどまっていることからも明らかなように、機関紙活動という点では、われわれが今なお共産党に大きくたちおくれているということである。

 第二は、機関紙誌の量的拡大と質的向上がほとんどもっぱら機関紙担当の活動家たちの努力に任されており、党全体が、機関紙誌のもつ決定的な役割を認識し、その拡大のために組織的にとりくみ、機関紙活動と国民運動との有機的統合、機関紙活動への党財政の計画的投入といった課題を果しえていないことである。このような機関紙活動の軽視はわが党についてしばしば指摘されるマスコミ論調への無原則的な追従や依存と決して無関係ではない。党の体質改善の重要な一環が、機関紙活動への全党的なとりくみの強化にあることは今やきわめて明白である。

 党運営の刷新のもう一つの環は党の財政活動の領域にある。資本主義社会においては、どんな活動も財政的裏づけなしには実現不可能である。財政活動を軽視するということは、党活動を真剣に具体的に考えていないということを証明するものだといってもさしつかえない。だがわが党には伝統的に財政活動の意義を理解せず、あるいはこれを過小に評価する気風がある。高遠な革命戦略についてはとうとうと論じ立てても、こと財政問題となると全くの無関心、不見識、無能力ぶりを示す党員は決して珍しくない。このような党の財政活動の貧困、財政能力の不足のため、とくに地方の党組織では活動家の生活保障にも事かき、有能な活動家を常任として確保することができず、党の活動能力の低下をひきおこしている。また選挙に際しては選挙資金の大きな部分を総評に依存せざるをえないといった事態を招いている。これではいかに選挙活動における労組(機関)依存から脱却の必要を唱えても、空言にしかならないであろう。革新政党の財政はあくまで党費を中心にすべきであるが、同時に機関紙活動の強化、同調者による大口、小口のカンパその他さまざまな形で党資金を確保するための創意ある努力が党行動の重要な一環として計画的に展開されるべきであり、これは党近代化のもっとも根本的な前提条件だといわなければならない。

 党運営の刷新の課題として最後に強調したいのは活動家を適正に配置し、その能力をもっと有効に発揮させるという問題である。これはブルジョア的経営用語でいえば、いわゆる人事管理の問題だといってよい。従来、わが党には意識的、計画的な人事管理はほとんど存在せず、人材の登用、配管は全く便宜主義的、思いつき的におこなわれてきた。そこには多分に派閥的な要素さえ作用していなかったとはいえない。

 だが、活動家の適正な登用と配置は党運営における決定的な問題の一つであり、社会主義政党の指導部がこの問題をいかに重視し、その対策に腐心してきたかは国際社会主義運動の歴史を一べつするだけでも明らかである。党内にいかに有能な活動家がいても、その適正な配置がおこなわれないならば、宝のもちぐされであり、その結果、党の隊列に士気の沈滞をもたらし、党の老朽化に拍車を加えずにはおかないであろう。

●思想、理論の強化を

 党革新のためには以上に指摘したような党運営の刷新の問題とならんで党役員や議員をもふくめた全党員の理論的、思想的水準の向上が真剣に検討されなければならない。わが党には議員になったり、有力労組の幹部になったりすれば、そのことによってあたかも社会党員として終着駅についたもののように考え、社会主義理論を修得し、知的水準を高めるための不断の学習や修養を怠る傾向が決してないとはいえない。その結果としてもたらされるのは視野の狭隘であり、思想の保守化であり、理論の硬直化である。これではさきに政策立案能力にかんれんして述べたような党外の知性の動員などは思いも及ばないであろう。今日正式に党に加入していなくても党の路線を支持している知識人の層はきわめて分厚く、その動員と開発は党勢の拡大に決定的な意義をもっているが、それを十分になしえない最大の理由の一つは、幹部をふくめた党の思想水準の低さにあることが反省されなければならない。

 教育とか学習とかいえばせいぜい若い活動家の養成手段にすぎないものと考えられがちであるが、平和革命においては支配階級の知的、道徳的な影響下にある広はんな国民大衆を革新の側に獲得することが必要であり、それには党自身が支配階級の最高の知的代表と対抗し、それを克服しうる能力を身につけなければならない。党の教育活動はそうした能力をやしなうためのすぐれた戦略的な活動の一つである。昨年の総選挙においても候補者のすべてが党の基本的政策、当面の政策を完全に消化してそれを長期的な目標とむすびつけ解明して、党のいきいきとした全体像を国民大衆の前に明らかにする点で必ずしも十分な能力を発揮しえないということが指摘されているが、これも結局は党全体の知的、理論的水準の問題である。

 党ならびに党員の知的・思想的な高さを示す指標の一つは、政治的敏感性である。選拳戦のさなかに突発した三池事故や鶴見事故の本質、意義を直ちにとらえて機敏に国民に訴え、大衆行動をおこしてゆくといった点でも、率直にいってわれわれにはなお克服されるべき大きな弱点があることを認めざるをえない。

 いずれにせよ、経営学ブームに見られるようにブルジョア企業の経営者でさえ、新知識の吸収にかれらなりの努力をはらっているとき、革新政党の幹部や活動家が理論学習に怠慢であることはゆるされないであろう。その意味で党員教育の問題には党学校の強化をはじめ、特別の努力が傾注されるべきである。

●党と国民との結合

 党革新の第三の課題−ある意味でもっとも重要な課題は、党と国民大衆との結合をいっそう緊密化すること、この結合の新しいスタイルを探求し、創造することである。共産党や創価学会はその方針の当否は別として、ともかくも末端の組織が文字通り細胞としての機能を発揮し、民衆のなかで公然と党なり、学会なりの名をかかげて日常的にいるが、わが党の場合は、無論例外はあるにしても、日常不断の民衆工作によって党を直接大衆のなかに持ち込む点で共産や創価学会にくらべて著しく遜色があることを率直に認めなければならない。多くの国民大衆、とくに地域の住民にとっては社会党はマスコミをつうじてしか姿のつたえられない党であり、いわば“声はすれども姿の見えない”存在となっているというのは言い過ぎであろうか。この地域における“党の不在”を克服しない限り、党と大衆との真の血の通った結合関係をうちたてることはできない。多少、誇張していえば今日、存在するのは党の基本組織と大衆との結合関係というより、むしろ議員個人と個々の選挙民との関係にすぎず、大衆のなかに党の政策を浸透させ、住民の要求を汲み上げて運動を組織するという社会主義政党本来の活動が議員の世話役活動に解消されてしまっている。

 いわゆる党の議員党的な体質はここにもっと致命的な形をとってあらわれている。しかも皮肉なことに、さきにも指摘したように、このような議員党的体質が選挙活動における党の最大の弱点のーつとなっているのである。これは党の末端組織−支部だけの責任というより、むしろ党の指導態勢全体の責任であり、この点では党の体質改善というより、むしろ新たな“党づくり”が要求されているといっても言いすぎではない。

 党の国民大衆との組織的結合の弱さは労働組合や社青同を別とすれば、多様な民主団体、大衆組織に対する党の影響力の微弱さないし欠如としてもあらわれており、それは共産党が民主的な医療組織や民商から法律組織、学術団体、左翼出版社にいたるまでのその指導方法の当否は別として、多様な団体・組織をその影響下におさめているのと著しい対照を示している。ここにもすべてを選挙に直接役立つかどうかで割り切り、議会外の大衆的、道徳的な威信の拡大という課題に対して消極的な党の姿勢があらわれていることを指摘しないわけにはいかない。

 党はさきに機構改革の一環として支部の細分化に着手し、党組織の末端に党生活、党活動を確立するための努力を続けてきた。また、自治体改革と地域民主主義のたたかいを党の重要な闘争課題としてとり上げ、地域住民の組織化にも力を注いできた。この二つは党と国民大衆との結合を新たな基盤の上にうちたてるための重要な手がかりである。もちろん、これらの努力が企業内、職場内における党組織の拡大と独自活動の強化と並行してすすめられなければならないことはいうまでもない。労働機関への依存からの脱却といい、大衆運動を指導しうる党への成長といい、これらの地味な組織活動を粘りづよく続けてゆくことによってしか達成されないであろう。

 最後に党の拡大の問題についていえば、まず指摘すべきことは、党の議員党的体質が党員をふやし党組織を強化することを必ずしも必要としていないという事情である。有能な党員がふえることは議員立候補者をふやすことを意味し、また党組織が拡大され、その指導力が強化されることは既成議員の個人的な支持者集団が党の組織に解放されることを意味し、いずれも議員中心の党体質と矛盾する側面をもっている。このような体質を放置しておいて、党の拡大をさけんでみても実効はほとんど期待できないであろう。党の量的拡大はその質的革新と不可分の課題なのである。

 また私はすべての党員が、自分が党の拡大という課題にどれだけ真剣にとりくみ、党員獲得のために真剣な努力をしたか、前大会以来、現実に何人の党員を獲得したかときびしく自問してみる必要のあることを強調したい。これは党拡大の問題を党員の心がまえの問題に解消するためではなく、この問題も前述した党の作風の改革と切り離しえないことを指摘したいからである。

●むすび

 以上、党の内部体質の弱点、欠陥の改革について若干の問題を提起した。党の直面している問題を明らかにするためには、単に党の内部体質に眼をむけるだけでは不十分であり、池田内閣の所得倍増政策によって、助長された、ここ数年来の日本経済の高度成長のもたらした社会、経済構造の深刻な変動の中で、わが党がおかれている容観的な位置を正確に見定める必要がある。この問題については、近く機会を得て検討したいと考えているが、いずれにせよ成長産業の近代的経営では自民党“近代派”や民社、全労の浸透をゆるし、二重構造底辺の未組織勤労者は自民党や創価学会、共産党の影響下にゆだねておくような状況を克服しないかぎりわが党は革新の主流としての地歩をつよめることはもちろん、それを維持することさえ困難となりかねないことをこの際真剣に反省すべきである。

 新しい年は、昨年にも増して重大なたたかいをわれわれに課している。原子力潜水艦寄港阻止、日韓会談反対など日本の平和と安全を守るたたかいは、年のはじめから急迫した事態を迎える。物価の値上がりなど高度成長政策の破綻によってもたらされる国民の生活を守るたたかいは、いよいよ重大さを増すであろう。「低姿勢」から「高姿勢」への転換を策す池田内閣によって、憲法改悪の日程が具体化される危険も追っている。これらの当面するたたかいの中で、党革新の事業を前進させるために全党を強化することを心から期待してやまない。
           ― 『社会新報』一九六四年一月一日号より−