再軍備反対決議
第七回全国党大会
一九五一年一月二一日
*出典は『資料日本社会党四十年史』
主 文
われわれは日本の再軍備に反対する。
右決議す。
提案理由
一、再軍備と自衛権を混同せず、冷静に区分して考えねばならぬ
朝鮮事変の重大化に伴って日本の安全をどうするか、という問題が国の内外から盛んに論議されて来た。そして典型的には芦田総理の様に、緊迫した国際情勢に処して日本も直ちに再武装すベしと主張するものが出て来た。そしてそれ等の再武装論者が新憲法の精神との矛盾を発見するや、必ず理由とする所は、われわれ新憲法と雖も、自衛そのもの迄も否定しているのではないから、自衛のための再武装は違法ならずと主張したり、又再武装は違憲であるとしても、自衛権は残っているのであるから、憲法を改正しても再武装を図らねばならぬと主張するのが例のようである。
われわれは勿論、日本の自衛権そのものは厳存しているとの見解に立つ。そしてこの事は法的にそうであるように、日本の独立を信じている日本人凡てが承認し又、希望するところの国民感情であると思う。乍然、問題は、自衛権が直ちに再武装であるという事を意味しない。又かく考える事は極めて危険である。寧ろ今日の国際情勢下にあってはこの二つを厳密に区分して考える必要がある。それは何故であるか。
(イ) 今日国際的な意味で理解される日本の再武装と、日本の自衛のための再武装とは一応別個のものとしで考える必要があるからである。
即ち国際的規模に於て力説される日本の再武装は、朝鮮事変を具体的契機としで生れたもので、西欧即ち北大西洋軍事同盟参加国を中心とするブラッセル会議の結論として西ドイツの再軍備に対応する所のアジア再軍備の一環として、日本再軍備が考えられているものである。故に今日の再軍備は、アリューシャンからフィリピンに至る防衛線確保のための再軍備と理解すべきである。乍然、極めて常識的な国民感情としてのもう一つの再軍備論は、日本をどうするかという純粋な意味での再軍備とを混同すると、結果に於て重大な過誤をおかす事になる。
(ロ) 従って、再軍備の場合にも具体的な次の二つの形態が存在する。
(1) 第一の場合は、日本が国防省乃至参謀本部を持ち、最高司令官以下の人事権は完全に日本政府の下にある。軍はその装備についても何等の制限を受けない。車は日本政府の予算によって賄れる。そして軍は日本政府の命令によってのみ行動する。例えば日本軍が、他国の軍隊又は国連軍と共同の軍事行動を取る場合(連合軍に参加する場合等)にも、日本軍よりその連合軍最高司令部に参加し、平等の発言権を持つと同時にその決定に対しては拒否権乃至引揚権を有する。
(2) 第二の場合は凡て第一の場合と反対である。最近伝えられる西独再武装案の例の様に歩兵だけが認められ五千人を単位として米英仏軍中に混入され全く米英仏軍中の一部としてその指揮の下に軍事行動をする。その名目が所謂傭兵であると否とを問わず要するに、国の軍隊としての独自性がない。
右の同種の再軍備の中第一種のものは日本の自衛権に中心が置かれたものであるが、国際的な四囲の情勢から見て今日到底許される筈がなく、第二種のものに就てはたとえ許されるとしても屈辱極まるもので日本人として反対しない者はあるまい。西ドイツのシュマッハが強力に反対している所の西ドイツの再軍備も、又最近芦田前総理が「日本は地上軍だけで海軍空軍はアメリカのそれによって護られれば良い」という再軍備論も、或は外誌に縷々伝えられる、地上車のみの再軍備を日本に許し、参謀本部や司令部の設定は日本軍は許さないといった様な再軍備は何れも従属するものであって而も西欧陣営から日本に要求されて来る日本再軍備諭と見て誤りないであろう。
(ハ) 最後に、再軍備が西欧側から要請されたものとして。
之は日本の自衛権を主張する絶好の機会であるからこの機運を利用して日本の再軍備を図るべきであるとか西欧自体と日本とは対共産主義防衛に於て一致しているのであるからこの機会に日本の再軍備を図って些かも不思議はないとか、西欧側の要請と日本の自衛権とを一致せしめた考え方も存在している事は否定出来ない。乍然この議論はミイラ採りがミイラになる重大な危険を伴う事を忘れたものであって、少くとも日本の対等の権利が国際的に認められず、自由なる意志の表明が不可能なる現在に於て、之を主張する事は国際情勢を甘く見た重大なる誤りともいうべきである。
二、日本の再軍備は第三次世界大戦に引き込まれる危険を持っている
再軍備が純粋な意味で自衛として編成されるものであるという見解は、前述の如く全く空観念論であって寧ろ本質は中ソを対象とした西欧陣営の東西に再軍備計画及び西欧の集団的軍事同盟に直接参加する事を意味するものであるから、日本の再軍備は直ちに戦争参加を決定する事を意味する。又われわれが既に決定した協参戦の義務を伴わない国連による安全保障を求めるという重大な中立的態度を放棄して参戦による一方的国連への協力を決定づける事を意味する。従って日本が三たび戦争に参加する事を決定する様な日本再武装論には到底賛成する事は出来ない。
三、日本を再武装すれば又反動勢力の武器となる怖れがある
資本主義制度の下に於ける軍隊は、必ず必然的に資本主義を擁護し、支配階級たる資本家の番兵となり、勤労階級弾圧の強力な武器となる事は明瞭である。軍隊の存在は、勤労者の自由と生活とを奪い、社会主義革命の成就にとって大きな障碍となる事は疑いない。況や未だ民主化の程度が極めて低く個人の自覚の少い日本にあっては予備隊志願者の例にも見られる如く好戦的風潮が未だ消えず、この間に再起を狙う旧職業軍人、右翼浪人、被追放者等がばっこし煽動的ニュースは更に之に拍車をかけている。資本主義政党の無為無策、腐敗堕落は之に輪をかけて国民をして議会政治に失望せしめ再びファシズムが拾頭せんとする兆さえある。この様な情勢の下に於て現在の政治体制の下にある限り再軍備が独裁的軍閥ファッショ政治の再現を来さないと何人が確言し得ようか。右の事情は前述の再軍備に共通の事であるが、再に第二の場合に於て徒らに日本民族の生命を他国に委ねて無益に消耗する事は到底われわれの承認し得ない所である。
四、日本の再軍備は国民に重税を負わしめ復興途上の国民生活を破壊する怖れがある
敗戦下の勤労大衆は未曾有の重税に喘えぎ乍らあえて今日迄生活を支えてきた。僅か警察予備隊七万九千人を養成するだけでも二百億を必要とするのであるから、数十万人の軍隊に不充分な装備を施すとしても恐らく予備隊の十数倍或は数十倍の費用を要するであろう。従ってそれだけ更に国民の負担は人的に物的に増大する。そこである者は終戦処理費を削減してこの費用に当てるならば可能であるというかも知れない。乍然、われわれ日本人は敗戦の当然の義務として今日迄年々千数百億円の終戦処理をあえて負担して来たものであって、占領状態の終了と共に或は之を減税にあてるか或は之を生産的投資に振り向けて、日本経済の復興の資本にするために強き希望を持ち続けて来たものである。
(注)たとえ終戦処理費が削減されても、対日援助費が打ち切られるので、その費用は軍備に使っては経済をはかいするであろう。
六千数百億の一般会計に占むる千数百億の非生産的支出は敗戦という異常なる条件の下に於てのみ認容せられる所のものである。従って之を軍備の為に支出せんとするが如き議論は財政をわきまえざる暴論というべきである。尚資本と同様に資材に就ても同様の事が言い得る。即ち再軍備がどの程度行われるかは別として生活復興及び輸出に事欠く原資材の現状に於て更に輸入が著しく困難になりつつあるのであるから相当量の原材料を非生産的な軍備に充当する事は、それだけ復興や輸出を困難にするのみならず、その達成を遅延せしめ国民生活を著しく引き下げる結果となる。
(注)伝えられるように警察予備隊の二、三倍強化でさえ、一人三〇万円位で二〇万の費用とすると約一千億から二、三千億かかる。これに重装備を加えたら五千億位になる。今でもインフレ要因があるのだから(予算の項参照)、再軍備をすればインフレは激化するであろうし、税金も重くなるだろう。またその結果、援助打切後の経済自立計画は資金と資材不足のため放棄して国民はとたんの苦しみに悩むであろう。これは日本の財政状況をよく知っているシャープ博士すら認めていることである。(二月二十五日外電)。
五、日本の再軍備は全面講和を不可能にする怖れがある
日本再武装の問題を講和前に於て云々する事は只にその必要がない許りでなく、講和、就中全面講和に対して甚だ有害である。我々は極東委員会十三カ国と全面講和を強く望んでいるのであるが、極東委員会十三カ国のうち、ソ連は勿論、中国、イギリス、フィリピン、インド、オーストラリア等の多数の国が日本侵略主義の復活を恐れて日本の再軍備に反対するか或は制限せんとしている際日本自ら再軍備を主張することはとりも直さず全面講和を一層困難にする事と言わねばならない。講和前に於て我々が再軍備に対して特に慎重でなければならぬ所以はここにある。
六、日本の再軍備は少くとも今日の状態に於ては憲法上或は国際法上不可能である
(イ)憲法改正によって再軍備を行おうという説があるがそれは法律上は不可能である。
戦争放棄、軍備の廃止を規定する第九条は主権在民を規定する第一条と共に新憲法の根幹中枢をなすものである。之を削除変更する事は(憲法の解釈論としては)改正の限界外にあり不可能である。それは何等かの方法による謂わば一種の革命によってなされ得る事が考えられるにすぎない。然し我々は正義と秩序が国際社会の基調たる事を確信し諸国民の公正と信義に信頼して主権在民を守ると同様戦争放棄をも守り抜かねばならない。
(ロ)日本の再武装は国内法上憲法違反であるのみならずより上位法たる国際法に違反する。
ポツダム宣言及び降伏文書は日本軍の完全武装解除と軍事産業の根本的禁止とを定めているのである。たとえ再軍備の為に国内法上合法的に憲法を改正し得たとしてもその事自体がポツダム宣言に違反しているのである。勿論ポツダム宣言は講和条約又はそれ以後の条約によって変更が可能である。然しそのためには、宣言国凡てとの合意がなされねばならないが現在の見透しでそれは不可能である。
(ハ)現在日本は法的には連合国と交戦状態にありしかも完全な被占領状態にある。
即ち日本は現に第一の進駐軍(連合軍)によって被征服の状態にあるのであって日本の主権は完全に連合軍の手にあり、かりに第二の侵入軍(例えば中共軍)が現れても、国際法上は自ら主権を発動してこれを防衛する権利もなければ義務もない。又その能力もない。これに対する防衛は日本の主権を代行する連合軍の任務である。又連合軍中の一国(例えばソ連軍)が日本に大挙進駐しできた場合は、彼ら連合軍部内の統制関係であって具体的には極東委員会の決定違反問題となろう。従ってこれに対する問題は直接日本の関与すべき筋合ではない。これを要するに講和前に於ては、日本が自衛のために再武装して防衛するということは国際法上あり得ないのである。
七、再軍備したとしても果して真に強力な国民の自衛心を期待し得るや否や疑問である
深刻な敗戦に漸く己れをとりもどしつつ僅か六年目の今日に於て、三度び戦争の危機に直面した国民に対して銃をとれ剣をとれと天下り的に要求した処で果して真実な国民の協力が得られるであろうか。家を焼かれ、財産を失い、父や夫や兄弟を奪われた国民が如何に時局を意識していくであろうか。戦傷者だけでも三百万人を数えられるからその家族を合せれば実に千数百万人が戦争の悲劇を直接に体験している。而も未帰還者は三十七万人といわれるのである。そしてこれ等の人々は忠魂碑も建てられず、保障も遺家族の扶助も凡て充分にはなされていない。この人達は少なくとも「戦争はいやだ」という人達である。吉田内閣は修身課目の再開や君が代、国旗掲揚によって国民の祖国愛を再び呼び覚まそうとしているのであるが、そうした政策の上に再軍備が主張されるならば、それこそ十年昔への後退であり、又凡そ敗戦にあえいできた国民の感情とは離れたものであろう。コムミニズムに対決せんとする日本国民の自衛の力はこうした空疎な再軍備からは到底盛り上ってはこないだろう。
八、真の自衛はどこから生れて来るか
(イ)われわれの脅威は外敵侵入ではない。
再武消音の多くは「中ソ軍の侵入が日本にも来る」という前提に立っている。特に中共軍の介入以来この誇大な宣伝をして、国民を神経戦の渦中に巻き込み、再軍備を合理化せんとしている。ソ連や中共軍が海を渡って日本に侵入するという根拠が果してどこにあるというのであるか。
(注)アチソン長官でさえソ連は今のところ世界戦争をやる気はない、その実力もないとしている。日本を侵略することは世界戦争を覚悟しなくてはできない。世界戦争になっても主戦場は欧州であり、日本に兵力をおくるためには莫大な損害とまた莫大な海軍力が必要である。いまソ連にはその海軍力はない。
共産主義勢力の侵入の怖れは彼らの世界革命方策にある。それはとりもなおさず一つの国家、一つの民族に、二重の政権、二重の軍隊を作り、その内乱を通じて侵略を行わんとする所にある。李承晩対金日成、蒋介石対毛沢東、バオダイ対ホーチミンといった革命方式が内乱となり、その内乱が遂に戦争を国内に呼び入れたのである。われわれが最も怖れることはこの国内に於ける二重政権の発生であるということができる。
(ロ)国の安全を守る途は国内的には社会不安を一掃し国民生活の安定と向上を保障確立して、共産主義勢力とファシズム勢力との擡頭を許さず、要すれば民主的治安組織を確立して真に国民一人一人が平和を破らんとする自らの敵と対決せんとする意識がもえ上がるが妬き内政の確立をみることである。
(ハ)而して対外的には自ら進んで戦争の危機を招き或はこれを助長せしむるが如き一切の外交を排し、全面講和、軍事基地反対、及び中立堅持の原則の上に、世界平和のための国連に協力し併せてその安全保障を求むる不動の平和的外交体制を確立することである。
九、結論
(イ)何れにしても再軍備の問題は講和後か或は同等かの形で独立された後に於いて問題とすべきものである。従って斯る問題を占領下の政治的にも経済的にも制約された下に於て十分に国民の納得のいく様に論議する事は適当ではないし又事実できない事である。現在凡ゆる神経戦を煽る様な戦争の為の軍事的な見解に偏した様なニュースが世界を悩ましている。こうした神経戦術にひっかかってはならない。不必要な危機意識が危機を導く事になる。
(ロ)我々として日本国民として、当面なし得、又なさねばならぬ事は、世界平和への努力である。
第三次世界大戦の防止である。戦争にこりごりした日本人を戦争の大殺戮の中に再び叩き込む様な事をしてはならないという事である。大戦が起りそうだとか、起ったらその時はどうするかなどという事は当面むしろ無用な議論でさえあり次の戦争はどちらが勝って終結するという様なものでもない。我々の近代文明の崩壊以外の何物でもない。取わけ日本は両軍の占領の目標となり、最もむごたらしい戦乱の中に民族の大屠殺が行われる事は明瞭である。
我々はこの世界戦争を防止する為に平和への毅然たる団結を固め、世界の良心と理性とに訴えねばならない。八千三百万の大人口と優秀な文化と高い生産力を有する日本の発言は世界に対して相当のウエイトをもつものである。その為には対外的には全面講和、中立堅持、軍事基地提供反対の講和三原則に従って独立を達成し、対内的には速に社会主義体制を整えていく事が第一に必要である。
(ハ)最後に「若し社会党が再軍備反対を絶対に固執していると終には、にぶって動きがとれなくなる」という様な事をいう者がある。
この論者は社会党の所謂講和三原則についても同じ様な事をいう。その意味する所は恐らく「今の中は再軍備反対、全面講和、軍事基地提供反対を唱えていても講和会議の際には都合でこの主張を放棄してもいい」というのであろう。しかし社会党が再軍備反対や講和三原則の主張を堅持することの最も必要なのは講和会議の時である。この時にこれを捨てるというならそれは真の再軍備反対論者でもなければ全面講和の主張者でもない。寧ろ悪質な再軍備論者であり単独講和論者であるといわねばならない。社会党の再軍備反対論や講和三原則の主張は今までにのべた様に確乎たる根拠に基くものであって講和会議前と同様に講和会議に於ても更に強く主張されなければならぬものである。