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社会主義への道は一つではない(後半)
                                      四
 このように理解されたプロレタリア独裁と、これこそが、プロレタリアートの独裁だという要求をもって我々に示されていたソ連の経験とのあいだに、あまりにも大きな隔たりのあることは、説明するまでもないだろう。資本主義から社会主義への変革過程におけるもっとも基礎的な条件についてさえも、その国の条件によってこれほどの違いがあるという、このこと一つを見ただけでも、社会主義革命の方式は一つではなくて多くであり、他国の経験は学ぶべきものではあるが真似るべきものではない、社会主義への我々の道は、我々じしんの苦心によって見出さなければならないことがわかるだろう。ところが新興宗教的な熱情をもってスターリンとソ連の経験とを信仰していた人々のなかには、なんの矛盾をも感じることなしに、こんどは中国の経験を真似ようとした人がある。たとえば民族資本家をも包容する民主民族戦線の形成というお題目を、わが国で唱えている人々などがそれである。
 
 ソ連は、民主主義の国ではなくて階級独裁の国であるという理由で、民主主義諸国から非難されていた。しかしソ連には、以上に述べたような意味での(または劉少奇報告から理解されるような)階級独裁が実現していたろうか。これは疑問である。またソ連に行なわれているのは附級独裁ではなくて、一党の独裁でしかないという非難もあった。しかし組織されないままでの階級には、政治的に支配する能力はないのであって、そこから当然に、階級による支配は、階級を代表する政党による支配の形をとることになる。であるから政党による支配であるということは、かならずしも階級による支配でないことを意味しない。ただ政党による支配が階級による支配の本質を失わないためには、その政党は、支配者的な政党の党員という特権者の組織ではなく、また人民を支配する機構としての組織ではなくて、大衆の意志が支配している党でなければならない。この点を『プロレタリア独裁の歴史的経験について』は次のようにいっている。
  「正しい指導(党の)というものは、大衆のなかから出て、大衆のなかにはいってゆくのでなければならない……大衆の意見−分散的な系統だっていない意見−−を集約したうえ−−研究を通じて集約した系統だった意見にかえたうえ−−ふたたび大衆のなかに持ちこんで宣伝し、説明して大衆の意見にし、大衆がそれを堅持し、行動にあらわすようにしむけるとともに、大衆の行動のなかでこれらの意見の正しいかどうかをためす、そしてそのうえで、さらに大衆のなかから集約してふたたび大衆のなかに持ちこんで堅持されるようにしてゆく。このようにしてかぎりなく繰り返してゆくなかで、より正しい、より生き生きとした、より豊富なものになってゆく・・・わが党内では、こうした指導方法は、大衆路線という一般的な名で呼ばれてきた……」
 また劉少奇報告は「共産党員は、いつのばあいにも人民の中にあっては少数である。だから共産党員はいつでも党外の人々と協力する義務がある」ともいっている。
 
 ソ連共産党の第二〇回大会は、レーニン死後のソ連にスターリンの個人独裁が成立していた事実を大胆にみとめ、公然とこの誤謬の清算を宣言したのであるが、これは言うまでもなく、ソ連の社会主義体制に、スターリンの個人独裁というよけいなものがくっついていたということではなくて、ソ連体制そのものが社会主義的民主主義の体制ではなくて、個人的独裁者と特権階級による官僚支配の体制に変質していた事実を認めたことを意味している。そしてこの誤謬の清算は、ソ連がもういちど本来の社会主義的民主主義の体制に復帰する決意を示したものとしても、またそれが国際社会主義運動におよぼす影響からも、喜ぶべきことであるが、問題はまだ残されている。ソ連が、すくなくともスターリン時代のソ連が、個人独裁の体制だったとすれば、ではソ連には、正しい意味でのプロレタリア独裁はどうなっていたのかが問題になってくる。
 
 ソヴェトは、一九〇五年の革命情勢のなかからおのずから生まれた人民の組織であった。レーニンはこの自然発生的に現われた人民の組織に、未来の革命政権の芽生えを見いだしたといわれている。このようにソヴェトは、その発生の過程において人民じしんの民主的な組織であり、ブルジョア・デモクラシーの制度にたいするプロレタリア・デモクラシーの制度であるとされていた。そしてこの民主的な制度をつうじて指導したものは、民主的集中の原則に貫かれていたはずの共産党であった。こういう基礎のうえに立つソヴェト政権が、なにゆえに、またどのようにして個人独裁の体制に変質したかは大きな疑問である。六月三〇日のソ連共産党中央委員会の布告は、懇切ていねいにこの問題を説明しているが、この説明を聞いたあとで、我々はもういちど、同じ疑問を繰り返さざるをえない。そこで多くの教訓を含んでいなければならないこの問題は、社会主義の前進のために、今後も十分に検討される必要がある。けれどもすくなくとも、これだけのことは明らかである。すなわちプロレタリア・デモクラシーの具体化したものとしてのソヴェト制度も、党内デモクラシーが徹底したはずの共産党の組織も、ソ連の個人的独裁政治という、プロレタリア独裁とも社会主義とも両立できないものの成立する妨げにはならなかったという事実である。ソヴェト制度も共産党の組織も、スターリンの個人独裁の成立を阻止することもできず、すでに成立したスターリンの個人独裁と対立もしていたかったとすれば、これはソヴェ卜制度そのものが、そして民衆の意志を集約的に代表していたはずの政党そのものが、個人独裁−ないしは官僚独裁−が人民を支配する機構に変質していたことを意味するのではなかろうか。イタリア共産党のトリアッチが、「これらの誤り(スターリンの犯したとされる誤り)がたんに個人に関する問題ではなく、ソヴェト制度全般にわたって余すところなく行き渡っていたもの」と理解したのは、当然ではなかろうか。しかし前記の中央委員会布告は、トリアッチの批判に答えて、個人独裁の成立(ここでは「個人跪拝」の問題として取り上げられているが)も、ソ連の社会・政治制度には変化をあたえなかったことを強調し、さらにソ連の「敵」が、「スターリン個人跪拝が、すでに過去のものとなった一定の歴史的条件によって生じたものではなくて、ソヴェト制度じたいが非民主的なため、制度そのものから生じたのであると主張している」のを否定して、その理由として「新しい民主主義的な国家権力としてのソヴェトは、自由を目指す闘争に起ち上った広範な人民大衆の革命的創造の結果できあがった」ものだという事実をあげている。スターリン独裁が、スターリンという人的要素とともに一定の歴史的条件から生まれたという点では、私は同意見であるが、問題は、人民大衆の革命的創造の所産である制度が、個人独裁の形成によって変化を受けなからだということが、はたしてありうるかどうかということである−−というよりも、個人独裁を形成させた「一定の歴史的条件」が、ソヴェト制度そのものをも変質させなかったかどうかということである。いずれにしても、社会主義的民主主義の体制の上に、ただタンコブのごとく個人独裁がくっついていたと見る認識の仕方には、残念ながら私は同調することができない。
 (注)この文中に引用したトリアッチの言葉は『世界週報』の訳文による。トリアッチの文章は、訳文で見たかぎりでは、決して歯切れのいいものの言い方をしていないから、私がまちがった受取り方をしているかもしれない。
 
                                      五
 ソ連における社会主義的民主主義とプロレタリア独裁が個人独裁(あるいは官僚独裁)と恐怖政治に移行しまたは変質し−−変質したのではなくて、ただ表面にくっついただけだとしても−−これがソ連体制を暗い陰で包んだという事実にたいしては、スターリンその人に責任のあることは争われない。いかなる歴史的必然も、人間の意識と行動とによってでなければ実現しないからである。と同時に、スターリンという一個人によっては、この歴史的事実が説明しきれないことも明らかであって、スターリンその人の性格が、一定の歴史的条件と結びついた時、はじめてスターリン独裁を成立させたと見なければならない。そうだとすれば、そういう一定の歴史的条件のもとで、ソ連には正しい意味でのプロレタリア独裁が実現していたのかどうか、実現されえたかとうかという疑問が、とうぜんに起こってくる。
 
 中国では、一九四九年に人民共和国が成立した時期が、プロレタリアートの独裁の成立した時期だという見解がとられている(劉少奇報告)。そしてこのプロレタリア政権のもとに社会主義的改造が巡行するにつれ、プロレタリア独裁の向けられている対象である階級はしだいに無力化し、したがうて、階級闘争はまだ存続はしているとはいえ、初期の峻厳さを失って、しだいに緩和された形で現われるようになり、いまでは説得と教育とが、階級闘争の主たる形態となった、こうしてプロレタリア独裁は、その社会主義的民主主義のなかにより多くの大衆を包容することによって、ついにはその対象を失ってくる、そして中国では、現実にこういう過程が進んでいる−−これが中国の指導者の見解であるが、ソ連における事態の発展は、これとは逆行していたかのように見える。このことは、ソ連では経済組織の社会主義的改造が、農業部門を除いては大いに進行し、したがって資本主義社会を特徴づけるような階級対立が消滅し、すくなくとも消滅に近づいたことが主張されている時期になって、スターリンが、社会主義的改造の進行につれて階級闘争はますます激化するという新しい理論を立てたことによってもうかがわれる。実際ソ連では、プロレタリア独裁は緩和された形に移行するかわりに、ますます峻厳さを加えたといえる。これはある程度までは、トリアッチの指摘しているように、社会主義的改造の過程に現われる当然の矛盾を−−枯尾花を幽霊と見たように−−「破壊行為、階級の敵のしわざ、秘密に行動している反革命グループのためなどと考える傾向がしだいに強まった」−こうして多くの革命の同志や無数の罪なき民衆が「粛清」された−−ことにもよるだろうが、おそらくは、ただそういう誤認のためだけではない。もしスターリンは自ら欺いたのではなくて、いっそう仮借のない階級闘争を推し進める必要を現実に見たのだとするならば、そしてソ連の社会は、資本主義的な階級対立はもはや存在しない(すくなくとも、それに近い)状態に達していたとするならば、それは資本主義的な搾取階級のかわりに、新しい支配者的な特権階級が生まれ、新しい階級対立が生れていたことを意味するのではなかろうか。そして独裁者の手に集中された国家権力は、新たな特権者によって、この新しい階級闘争の手段として、いいかえれば人民を支配するために、人民に向けられるものになったことを意味するのではなかろうか。
 
 ユーゴの共産主義者が、ソ連体制を国家資本主義として批判したもっとも基本的な点は、ソ連では社会主義的改造にともなって階級はしだいに消滅し、したがって権力の組織としての国家が枯死する方向をとるというマルクスの理論とは逆に、国家権力はますます峻厳な形で現われているという事実にあった。じっさい、スターリンによる権力の乱用が問題になっているのは、ますます強められ、そしてますます独裁者の手に集中された権力が、ブルジョアジーの残存勢力に向けられたということが問題にされているのではなくて、主として、人民に向けられたということが問題にされているのである。民主的集中の原則に立っているはずの共産党の内部における意見の相違が、党内デモクラシーの方法によって解決されないで、スターリンの手に集中された国家権力による恐怖政治的な方法でつねに解決されたことによっても、この独裁の性質を知ることができる。
 
                                      六
 ソ連に個人独裁を成立させた「一定の歴史的条件」については、ソ連研究者としての特別の知識のない私にさえも、いくつかの要因をあげることができるのであるが、そのなかのもっとも重要な要因の一つとして、ロシアにおける人口の構成を見落とすことはできない。革命当時のロシアは、農奴制度からは解放されたとはいえ、農奴にちかい生活状態と知識水準にある農民が人口の圧倒的な部分をしめ、近代的な労働者階級は、わずかなパーセンテージを占めるにすぎなかった。そしてそのなかのまた何パーセントかが、ボリシェヴィキ(後の共産党)の指導のもとにあったにすぎなかった。プロレタリアートが政治的に支配するためには、意識の進んだプロレタリアートの存在が必要なばかりでなく、プロレタリアートは量的にも成長していなければならない。四〇年前のロシアの社会的基礎の上には、正しい意味でのプロレタリア独裁−たとえば中国の指導者が理解しているような意味でのプロレタリア独裁が、即時に実現されることはありえない。ロシアがはじめて社会主義共和国と呼ばれたとき、それは社会主義が実現されている国という意味ではなくて、社会主義の実現を意識した目標とする勢力によって国家権力が握られている国という意味であった。ちょうどそのように、一九一七年一一月の革命によって成立したプロレタリア独裁も、絶対多数を包容するプロレタリア・デモクラシーを意味するプロレタリア独裁が実現されたという意味ではなくて、そういうものに成長しようとする政権が生まれたのだと理解した方が、理論的である。もしそうだとすれば、ロシアの「一定の歴史的条件」そのものが、プロレタリア独裁のそういう発展を妨げたのだということができる。
 
 プロレタリアートが政治的に支配する状態に必要な、十分な社会的基礎のないところのプロレタリア独裁は、正しい意味での−−すなわちマルクシズムのいうプロレタリアートの独裁よりも、マルクシズム以前の革命思想のなかに早くから現われていた独裁の思想(たとえばウィルヘルム・ワイトリングの)−−「革命的独裁」の思想に近いものになる危険が多いといえる。そればかりではない。レーニンがしばしば警告をあたえており、そして後にはソ連体制のなかに極度にまで成長した官僚制度について、トリアッチが「旧ロシアの政治組織形態と慣習からうけついできた伝統と、なんらかの点で関係があったのではなかろうか」といったのは、有益な問題を提起したものだと思う。これは官僚主義の問題ばかりでなく、スターリン時代のあの陰惨な恐怖政治は、プロレタリア独裁の社会主義社会よりも、我々に帝制時代のロシアの暗黒な宮廷政治を想い出させるものがある。そしてボリシェヴィキ(後の共産党)の革命運動の実践のなかには、マルクシズムの大衆運勁よりも、マルクシズム以前のロシアの革命思想と革命運動(たとえばネチャイエフの)との強い伝統的なつながりを想わせるようなものがある。そして先マルクシズム的な少数者の革命運動に見られた暗い面と一種のマキャヴェリズムとは、いまもなお、ある国々の共産党の特徴として残っている事実を否定することはできない。とはいえ、そのスターリンの独裁と恐怖政治とによって、ソ連における社会主義社会の基礎が築かれたのではないか−−こういってスターリン独裁の功罪の差引き勘定を要求する人々もある。けれどもソ連の達成した成業が、プロレタリア独裁がスターリン独裁に変質したことによってもたらされた成業であるのか、それとも、そういう変質にもかかわらず成し遂げられた成業だったのか、これは問題である。スターリン独裁が社会主義に貢献した功績と、社会主義にあたえた損失とを差引き計算することは、むつかしい。それは成業が小さいからではなくて、損失が大きいためである。しかしいずれにしても、私はスターリン独裁下の成業を小さく評価しようとするものではない。けれどもピラミッドが驚歎に値いするほど巨大であるということによって、その底に無数の声なき奴隷の苦しみと涙が埋もれているという事実が、差引き帳消しされるわけではない。
 
 けれども社会主義的改造の三十五年を経て、ソ連の社会的諸条件は、人口の構成をもふくめて、大きく変化した。高度の工業化によって強大な近代的労働者の階級が成長し、広範な知識人の階層が生まれたばかりでなく、農民の生活と意識も向上した。こういう変化は、個人独裁をもはや維持しがたいものにしたともいえるし、正しい意味でのプロレタリア独裁への、したがってプロレタリア・デモクラシーへの移行を可能とするような社会的条件が生まれたのだともいうことができる。この意味でソ連共産党第二〇回大会は、おそらくはソ連の社会主義的成長に、新しい時期を画するものとなるだろう。そしてフルシチョフ報告は、この新しい歴史的発展への、進発の宣言と見てよかろう。
 
                                      七
 フルシチョフ報告が、それぞれの国民はそれぞれの独自の道で資本主義から社会主義に移行するものだといった時、この言葉が、どれだけの意味を含めて言われたかは、もとより私にはわからない。しかしこの言葉を素直に文字どおりに受け取って、忠実にその論理にしたがうなら、各国の社会主義運動にとっても国際社会主義の運動にとっても、きわめて重大な意味をもつことになる。
 この短い、そして社会主義の常識といっていい言葉のなかには、(一)それぞれの国における社会主義的変革は、その国の土壌に根ざして成長した運動の全責任において行なわれるものである。したがって(二)それらの運動は、世界のある一つの中心から指揮されるものであってはならない。それゆえにまた、(三)国際社会主義運動は、かつてコミンテルンがそれをもって任じたような、世界的党というような形をとるものではなく、各国の自主的な運動のあいだの、提携と協力と経験の交流によって成り立つべきものである。そして(四)社会主義の世界は、それぞれの異なった変革の過程によって生まれた自主的な社会主義国家のあいだに、資本主義的な国際関係とは異なる社会主義的な新しい国際関係が成長することによって形成されるものである−−すくなくともこれだけのことが含まれている。
 とくにこの最後の点は、国際社会主義運動にとって重要なばかりでなく、こんごの国際関係一般にとっても重要な意味がある。
 
 フルシチョフ報告は「現代の特徴は、社会主義が二国のワクから脱却して世界的な体制へ転化したことである」といっている。これはソ連の、またはソ連圏のそとにも、社会主義国家が成長して、社会主義の世界が形成されつつあるということを意味している。しかし社会主義の世界は、スターリン時代のソ連の対外政策が事実上そういう方向をさし、そしてある人々が意識してそう考えていたように、ソ連にせよその他の一国にせよ、ある強大な社会主義国家がそとに向かって膨張することにより、または新たな社会主義地域を吸収して大きくなることによって形成されてゆくものではなくて、社会主義へのそれぞれの独自の道を歩む国々のあいだに、新しい社会主義的な国際関係が成長することによって形成されてゆくものである−−フルシチョフ報告は、こういう原則を認めたものでなければならない。
 それぞれの国は、一国だけで、社会主義政権を樹立し、資本主義から社会主義への変革の過程をおし進めることができる。こういう意味では、一国社会主義は可能である。けれども現在の資本主義的な国際関係と国際環境のなかで、一国の社会主義は、社会主義社会からその最高の発展段階としての共産主義社会にまで発展することができるかというと、決してそうではない。この意味では、一国社会主義は不可能である。一国の社会主義的成長が国際環境の制約をうけることは、ソ連の経験が明白に証拠だてている。ソ連の社会主義的成長をゆがめたもの、ソ連に個人独裁を成立させた要因の一つは、うたがいもなく国際環境であって、戦争はもとより、戦争の脅威でさえも、スターリン独裁を強めたことは争えない。労働者の年々の剰余生産の中からかなりに大きな部分が、直接間接に軍事上の必要のために引き去られたことが、ソ連の社会主義体制をゆがめていることは、いうまでもない。そしてそれが社会主義的改造に期待される大衆の生活水準の向上を妨げ、必要以上の耐乏と労働強化をよぎなくし、その不満が現われないためには、指導者跪拝や愛国主義が作為的に高揚され、プロレタリア・デモクラシーのかわりに盲信と沈黙と服従が要求される必要もあった。要するに社会主義社会の完成は、それにふさわしい国際環境のなかにおいてのみ−−いいかえれば社会主義社会の完成は、経済の国際的な計画化をふくむ社会主義的な新しい国際関係の成長に伴うてのみ、実現するものである。
 
 社会主義的な国際関係によって結ばれた社会主義の世界が成長するためには、新たに重要な国々が社会主義に移行することの必要なことはいうまでもないが、さしあたりソ連の支配下にある術星諸国が自主性を回復し、独立した社会主義国としてソ連、中国、ユーゴスラヴィアなどと正常な国際関係に立つことによっても、いちじるしい前進をすることになる。ソ連圏を形づくっている衛星諸国は、緊密にソ連に結びつけられているとはいえ、ソ連との関係はむしろ植民地的な関係を想わせるような関係であって、社会主義的な国際関係が成り立っているとはいわれない。衛星諸国の実状は十分に明らかではないが、しかしソ連圏からまっさきに自らを解放したまユーゴスラヴィアとソ連とのそれまでの関係が、ユーゴじしんには、植民地的支配と植民地的搾取の関係と思われるようなものだったことは争われない。こういう関係は社会主義的な国際関係でないばかりでなく、社会主義とは無関係にも、とうてい永く維持しきれない関係である。この意味では、社会主義の世界はソ連の「赤色帝国主義」と呼ばれた道によって成長するのではなくて、「赤色帝国主義」の解消によってこそ一歩前進するのである。そしてフルシチョフ報告から推論されるソ連の新しい方針が、これらの国々を自主的な社会主義国に成長させ、そのあいだに正常な社会主義的な国際関係をうち立てる方向を指していることは、疑いがないし、また、そうあるべきだと思う。
 
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