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火事と半鐘の関係
 
                                                                         堺利彦
 
*出典は『堺利彦全集・第五巻』(法律文化社 1971)。
 
                                     一
 
 ある時、ある所で、ある人が、子供に火の見やぐらの半鐘を指さして、「あれはなんだ」と聞くと、子供は、「あれをジャンジャンとたたくと、すぐに火事ができるのだろう」 と言った。
 
  ずいぶんおかしな言い草だが、立派な学者や、立派な役人や、立派な紳士が、ちょうどその子供と同じような事を言ってる。
 
 半鐘をジャンジャンたたくから火事が起こる。変なやつらが演説なんぞするから世間に騒ぎが起こる。半鐘をたたくことをとめさえすれば火事は起こらない。演説をすることをとめさえすれば天下は太平だ。だから変なやつらの演説はとめるに限る。こういう論理が近ごろ盛んに行なわれている。
 
 モ一つ外の例を上げる。気象台が低気圧の警報を発するから、それで暴風雨が起こるのだと言ったらドウだろう。そんなばかなことはテンデ話にならないはずだが、実際、世間にはずいぶんばかな事がもっともらしく主張されている。実を言うと、我々は社会の低気圧を認めて警報を発している者である。そしてその低気圧の襲来に対する処理の方法を。諸君に研究してもらいたいと考えている。しかるにその警報がおりおり中止されたり解散されたりする。
 
                                     二
 
 さて、ずいぶん古い昔から、この世の中に富みたる者と貧しき者とがある。富みたる者は常に少数である。貧しき者は常に大多数である。そしてその少数の富みたる者は支配する。その大多数の貧し古者は支配される。何千年来その同じ事をやりつづけている。
 
 ところが、貧しき者、支配される者がとかく不平を起こす。そこで富みたる者が知恵を出して、その不平を紛らかそうとした。
 
 まず第一にこういう話をして聞かした。人間の身体には分業という事がある。手足は毎日働いて食物をこしらえる。胃の腑はその食物を飲んで消化させる。それが分業である。しかるにある時、手足が不平を起こした。おれたちは働いてばかりいる。胃の腑は遊んでばかりいる。そしてうまい物ばかり食っている。おれたらばばかばかしい、少し胃の腑を困らせてやれと言って、手足が働くことをやめた。すると胃の腑は食物が無くなって大いに困った。けれどもそれと同時に、血液が手足に回らなくなったから、手足もやはりやせてきた。だから手足というものは、不平なんぞ起こさずに、黙って働かなくてはいけない。社会のこともそのとおりである。富みたる者と貧しき者との関係もそのとおりである。
 
 そう言われてみると、手足は、すなわち貧しき者は、人がいいものだから、なるほどそんなものかなァと言って、しばらく黙って働いていた。
 
                                     三
 
 富みたる知恵者はさらにこういう話をして聞かせた。人間の身体には中心がある。その中心はすなわち頭である。頭の中には脳髄がある。脳髄は尊いものである。大切なものである。この大切な尊い脳髄が指揮命令するから、それで人間の身体は活動ができるのである。手足などというものは、ただ脳髄の指揮命令に従って、どんな事でもヘイヘイ言って、おとなしく働いていればよいのである。手足が不平を起こしたりするのは、分を知らんというものである。手足が命令をして脳髄が働くなどということができるわけのものでない。社会の事もそのとおりである。富みたる者と貧しき者との関係もそのとおりである。
 
 そう言われてみると、手足は人がいいものだから、なるほどそんなものかなァと言って、しばらくはおとなしく働いていた。
 
                                     四
 
 しかしまただんだんに不平が起こってきた。なるほど、分業は必要だ。中心も必要だ。しかし富みたる者ばかりが、ナゼいつでも胃の腑の役と脳髄の役とを務めるのか。貧しき者ばかりが、ナゼいつでも手足の役を務めるのか。貧しき者の身体にも、ちゃんと胃の腑があり脳髄がある。そして富みたる者の身体にも、ちゃんと手足がついている。ナゼ貧しき者の胃の腑には食物がはいらないのか。ナゼ貧しき者の脳髄は指揮命令をすることができないのか。そうしてナゼ富みたる者の手足は働かないのか。人間の社会を人間の身体にたとえたのが間違いだ。身体の分業と社会の分業とは、分業の性質が違う。
 
                                     五
 
   富みたる知恵者はこの不平を聞いて驚いた。そこでまたいっそう奥の手の知恵を絞り出して、こういう話をして聞かせた。
 
 みつばちの社会は共同生活の模範である。みつばちの社会にはたった一匹の大きな雌が居る。それから何十匹かの雄が居る。そしてあとの何百匹かはすべて働きばちである。働きばちは毎日毎日セッセと働いてばかりいる。雄ばちは雌ばちに受精させるより外に役目がない。毎日みつばかりなめて遊んでいる。雌ばちはただ子を産むばかりの役目である。こういうキチンとした分業制度になっているから、それでみつばちの社会は非常に繁盛する。働きばちは決して不平なんぞ言わない。毎日毎日セッセと働いて、みつを取って来ては雌ばちと雄ばちとを養っている。人間の社会もそんなふうにしなければウソだ。
 
 ありの社会でもそうだ。ある種類のありには、からだの大きいやつが少しと、からだの小さいやつが大勢と居る。小さいやつらは兵卒で大きいやつらは将校である。大きい少数の将校と、小さい大勢の兵卒との区別がキチンとして、どうしてもその区別を動かすことができない。こういう分業制度になっているから、それでありの社会は非常に繁盛する。ありの兵卒は不平なんぞ決して言わない。人間の社会もそんなふうにしなければだめだ。
 
 そう言われてみると、働きばちや兵卒ありに相当する人間の貧しき者は、例のとおり人がいいものだから、なるほどそんなものかなァと、また感心してしまって、黙っておとなしく働いていた。
 
                                     六
 
 しかしまただんだんに不平が起こってきた。はちとありの話はどうも少しおかしい。我々人間は、はちやありとは違って、めいめいの身体のでき方がみんな同じである。男女の別だけはもちろんあるが、その外に生理上の違いはない。人間には働きばちだの、兵卒ありだのとして、天然自然に生まれついている者はない。我々は働きばちばかりに成りたくない。兵卒ありばかりに成りたくない。我々は将校にも成りたい。遊んでみつばかり食うやつにもなりたい。人間の社会をはちやありの社会にたとえたのが間違いだ。昆虫社会の分業と人間社会の分業とは違う。
 
                                     七
 
 サアまた知恵者が驚いた。そこで彼らはまたいっそう奥の手の奥の手を出した。今度はこんな事を言いだした。
 
 いかにも人間はみんな平等だ。しかし賢愚の別というものがある。賢い者はよく働く。愚かな者はなまける。働く者は立身する。なまける者は堕落する。つまり賢い者は金持になり、支配する者になる。愚かな者は貧乏になり、支配される者になる。これはどうしてもやむをえない。
 
 現に足軽から総理大臣になった人もある。一文なしから千万長者になった人もある。賢愚の別は争われない。人間は平等に違いないが、こればかりはいかんともすることができない。くやしいと思うなら賢くなれ。賢くなって大いに働け。諸君はたれでもみんな千万長者になれる。諸君はたれでもみんな総理大臣になれる。これほど公平な事はない。
 
 そう言われてみると、なァるほど、そのとおりだ。おれも一つ奮発して千万長者になってやろう。おれも一つ総理大臣になってくれよう。などと大いに気概がありそうで、実は存外人のいいやつらが、総理大臣の夢と千万長者の夢とで、しばらく現在の不平を忘れる。知恵者は舌を出して笑っている。
 
 また、それよりもいっそう人のいい連中は、なァるほどおれたちは愚かなのだ。愚かな者は仕方がない。もがけばもがくだけ損だ。貧乏はおれたちの天命なのだとあきらめてしまう。知恵者は胸をなでおろしている。
 
                   八
 
 しかし、いつまでもいつまでも夢を見てるやつばかりは居ない。またおれだってどうもまんざらのばかではないと考えるやつも出て来る。勧業債権を一枚か二枚か買っていたって、それで二千円必ず取れるとは決まっていない。勧業債券の当たりくじは三人か五人と初めから決まってる。一〇〇人の中で九九人はばかを見るに決まってる。自分が一○○人の中のたった一人になるつもりで、実はやはり九九人の運命に陥るのはばかげてる。また、自分が初めから九九人の運命を持ってる者なら、何もたった一人のやつに二千円もうけさせてやるには当たらない。これはいっそのこと、勧業債券というものを廃止する方がいい。社会の富くじ制度を全廃するに限る。そろそろこんな事を考えるやつが現われてきた。
 
                                     九
 
 サァまた知恵者が心配しだした。キャツらはもう恐ろしくなって震えだした。しかしキャツらもサル者。さらにまた一つ、最後の奥の手を出した。デモクラシーというおまじないがすなわちそれだ。
 
 富みたる者はもう決してわがままをしない。今後は何でも多数の人の言うとおりになる。国民の代表者が帝国議会に集まって、その多数決で決めたことなら、何でもそのとおりにする。不平があるなら議会で言ってくれ。そして議会の多数を制してくれ。そうすれば社会は諸君の思うとおりになる。それがすなわちデモクラシーである。デモクラシーが行なわれる以上、諸君が不平を言うのは間違っている。
 
 もちろん、今日ではまだ十分にデモクラシーが行なわれていない。しかしもう近いうちに、普通選挙というありがたいものを諸君に呈上する。その時、諸君はもう自由平等の極楽境に達するのだ。
 
 このおまじないでまたナァルホドと感心する、人のよい連中がだいぶん多い。
 
                                     一〇
 
 しかし考えてみるがいい。我々がみんな選挙権を持ったところで、ただそれだけで実際何ができる。
 
 昔ギリシヤのアデン(アテネ)などでは、人民の間に立派なデモクラシーが行なわれて、実に理想の自由国、理想の平等国であったと言われている。ところが、よく調べてみると、アデンの人民というのは一〇万人ばかりの自由民のことで、その外に四〇万人ばかりの奴隷がいた。一〇万の自由民から見ればデモクラシーであったかも知れぬが、四○万の奴隷から見れば全く専制政治であった。
 
 もちろん、今日の社会に奴隷はない。今日の国家とアテネの国家とは違う。普通選挙になれば国民の全部が政治に参与するわけだ。たれもがみんな自分の味方を代議士に出すことができるわけだ。しかし実際は違う。国民の多数は無知無力だ。朝から晩までアクセクと働いて、政治の事なんど考える暇がない。選挙権があったってなかなか使わない。使うにしてもが、金のあるやつに利用される。また少しくらい知識のある人民でも、学校や、教会や、お寺や、新聞紙でろくでもないことを教えこまれている。ことに新聞紙が恐ろしい。新聞紙はたいていみんな富みたる者の味方である。平生は少しくらい貧しき者の味方をすることもあるが、イザとなれば背中を向ける。だから国家の重大な問題になると、新聞がいつでも、富みたる者に都合のよいような輿論というものを作りあげる。人民はその輿論に従って投票をする。せっかくのデモクラシーが実際は中流以上に限られたデモクラシーになる。アデンのデモクラシーと同じようなものになる。今日の国家でも、国民の多数はほとんど○○と同様である。
 
                                     一一
 
 そこでデモクラシーは、富みたる者には都合がいいが、貧しき者にははなはだ不都合である。貧しき者の不平を本当に無くするためには結局、デモクラシー以上の分別をせねばならぬ。
 
 しかしわたしは必ずしも全然議会政策を否定する者ではない。貧しき者の代表者を議会に送ることは必要である。そしてあの議席と演壇とを、我々の宣伝用として、教育用としてはたまた示威運動用として、利用のできるだけ利用すべきである。
 
 しかしそれ以上のこと、あるいはそれ以外のことが必要である。モット根本的の方策が必要である。その方策があってこそ、議会を利用することもできるのである。
 
 我々はとにかくその根本的方策によって、貧しき者の手に政権を握らねばならぬ。そして国家の権力を利用して我々の理想を行なわねばならぬ。その後において我々は初めて、富みたる者もなく、貧しき者もなく、圧制もなく服従もない、本当に自由平等の新社会に入ることができるのである。